臓器移植法改正案に反対した科学哲学者、金森修さんの思い

2011年8月25日

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金森 修(かなもり・おさむ)
1985年パリ第1大学より哲学博士を取得。現在、東京大学大学院教育学研究科教授。『ゴーレムの生命論 (平凡社新書)』『昭和前期の科学思想史』など著書多数。

金森修先生の訃報に接し、哲楽編集部一同、謹んで哀悼の意を表します。
 
2011年8月25日にご協力頂いたインタビュー記事の全文をここに公開いたします。思いつきうる反論をすべてご自身で織り交ぜながら御答え下さり、とても印象的なお話でした。
 
2016年5月27日
哲楽編集人 田中さをり

概要

金森修さんは、東京大学大学院教育学研究科で科学哲学を教えている。金森さんは、東京大学人文科学研究科博士課程に在籍、その最初の半学期を終えた後に、パリ第一大学に入学し、そこで哲学博士を取得したという経歴をもっている。実は子どもの頃の金森少年は、コミュニケーションに自信がなく、大学時代東京に出てきたときにも、人との接触に戸惑うことがあったという。そんな「私と世界とのしっくりいかなさ」から解放してくれたのが、哲学だった。今では哲学を一種の天職だと考えている。

改正案に反対表明した時の思い

金森さんは、2009年6月18日に臓器移植法改正案が衆議院を通過したとき、「生命倫理会議」の一員として緊急声明を発表している。友人の小松美彦氏とともに、臓器移植法改正案に反対の意思を表明したのだ。従来の臓器移植法においては、意思表明に従って提供したい人だけ提供するという形だったが、今回の改正によって、臓器を半ば自由に取ってしまえる形になりつつあるという。金森さんは、基本的に臓器移植に反対しているが、その根底には「死者をきちんと埋葬するのが人間の基本的な義務なのに、臓器がバラバラにされ運ばれていくのは埋葬の失敗ではないか」という感覚があるという。しかしその個人的な感覚はともかく、人によっては自分の体からの臓器提供を積極的に行いたい人もいるので、その意思は尊重すべきであり、1997年の臓器移植法はそのような臓器提供者の意思を尊重するという点で意義があるとする。このことを金森さんは、臓器移植法は「臓器移植一般推進法」ではなくて「臓器移植限定認可法」、つまり提供したい人に限定して提供を認めるという法律であるべきだ、と強調する。2009年の改正はこの線から決定的に逸脱するものというのが、金森さんの批判の焦点にある。

子どもの脳死臓器移植に対する考え

金森さんは子どもからの臓器提供の問題について「難しいですね」としながらも、非常に重い心臓病の子どもをもった親たちに、臓器移植は認められないとはなかなか言いにくいが、しかし臓器移植はやはりやめてもらいたい、一刻も早く人工臓器や代替医療を進めてもらいたい、と率直にその思いを語った。

子どもや親への教育は可能か

最後に、子どもからの臓器移植について子どもに教えるべきことがあるとしたら、そのポイントになるのは何かと尋ねた。「15歳未満の子どもに意思決定を迫るのは難しいが、動物や人間の命について考えるきっかけを与えることはできる。一番やってはいけないのは、「臓器移植はすべきであり、しない人は利己的で悪い人だ」、という方向に誘導する教育を行うことだ。あくまでも一人一人の生命観を尊重すべきであり、子どもからの臓器移植については、そういう話題があるということに留めるべきだ」。これが、3人のお子さんの父親でもある金森さんの答えだった。

 

インタビュー

——2009年の6月18日に衆議院の本会議で脳死を一律に人の死とする臓器移植法案のA案という法案が可決されました。党を超えていろんな意見が出された案だったんですが、この法案が可決された翌日に、生命倫理学研究者が集まっている生命倫理学会議というところで、緊急声明が出されまして、金森先生もこの場で反対の意見表明を出されております。この反対の意見を出された時のお気持ちをお聞かせ頂けますか。

金森: 私は確かに、7、8年前、もっとですかね、10年くらい前から、もともとの教養はフランスを中心としたヨーロッパのものが私の基盤なんですけれども、アメリカの生命倫理がやはり日本でも重要になってきているし、世界的にみても随分重要になっているので、主にアメリカの生命倫理学の歴史を勉強することになりました。それも、単に臓器移植だけでなくて、人工妊娠中絶などの問題をいろいろと勉強していました。また私は必ずしも脳死の問題を中心に追っかけていたわけでもなく、むしろ私の30年来の悪友の小松美彦というのがいまして、彼がこの問題に関しては日本で最も明確でなおかつ一貫した反対論を言ってきている人でしたので、いわば彼に任せたという感じでいたわけです。97年に臓器移植法ができたときにも注目していたわけですが、その後ご存知のように、大量の移植手術が行われるわけでもなくきたわけですよね。確かに97年の法案もダブルスタンダードみたいなところがあって、いろんな問題もあったのかもしれないですけれど、今になって考えてみると、2009年に急激に改正された、私に言わせれば改悪なんですけれど、それにくらべれば、自分自身の意見をきちんと言って、その人の死生観に合わせて提供するなら提供する、提供しないなら提供しないということがきちんと確保されていたので、今みたいに死後に家族が当人の意思を忖度してみたいなね、そんな曖昧なことではなかったというふうに思っています。ですので、2009年の改正は非常に許しがたいと思っていたので、ずっと小松などに任せていて私自身はほとんどこの問題に関しては書いてさえもいなかったんですけれども、あの時に急遽、生命倫理会議という一時的な会を作りまして、小松が代表になって、私も参加して、2〜3回厚生労働省に行って、意見表明をしたわけです。

その時は何としてでも1997年の段階に留めるというか、そういう気持があった。脳死の後で臓器移植のために自分の臓器を提供することがあっても良いとは思うんですが、それはあくまで、あのぐらいのレベルでといいますか、年に数例といいますか、そのくらいのレベルでやるのがちょうどいいといいますか。臓器移植法というのは、本来は臓器移植限定認可法、つまりどうしても提供したい人はどうぞ提供して下さい、自分の死生観がありますので、ご当人の意思に従う、というかたちでいいのではないか。ところがそれが2009年以降、2010年から施行されているんですが、家族の意志の忖度とかですね、つまり亡くなった人間の体っていうのがはっきりとはいわないまでも、半ば間接的に国家のものであって、国家がそれをどういうふうに使うかというのは、国家に任せなさいみたいな、そういう流れですよね。そういう流れの中に我々の体、特に、遺体が位置づけられるということに対する非常に強い違和感があったから反対を表明したわけです。

ただ、ご存知の通り、2010年、去年からですか、施行されている中でほぼ数倍のペースで臓器移植は増えてますよね。これが国民の意思なのか、いろんなコーディネータとか全体の流れの中で、日本人というのはいざとなるとそういう流れの中に割とのってしまう方なので、そういう流れの中にのっているだけなのか、それとももともと臓器を提供しても良いと思った人が今までの数倍は潜在的にいたのか、それはよくわからないですけれども。今の段階ではそのどちらなのかよくわからない状態なのではないかと思っています。

私自身は今でも根本的にはまったく意見を変えていませんで、もちろんご自分の死生観によるっていうことは大原則なんですが、ただ、もっといえばですね、私の場合には脳死臓器移植に関しては割と昔から一貫した考え方をとっています。小松美彦の場合には脳死患者と言われても、脳死という概念が科学的につつけばつつくほどいろんな問題があって、ひょっとすると痛みを感じているかもしれないし、やっぱり生きている、死んでいる状態とはいえないんだっていう考え方ですね。だから生きている人間から臓器をとるなんてとんでもないということになるわけです。他方、私の場合はですね、脳死というのが仮に医学的に死んでることにほぼ準じるということになったとしても、なおかつ臓器移植などはするべきではないという考え方に立っています。これは科学の位相にある判断ではないのです。

なんで私がそういう考え方をとるようになったかというと、自分自身の精神分析はちょっと無理なのでよくわかりません。それはやはり宗教的な位相にあるものです。例えばですね、昔ギリシャ悲劇にソフォクレスっていう大変有名な悲劇作家がいたんですが、彼には『アンティゴネ』という有名な作品があります。細かいことは忘れちゃいましたけど、ある戦いで兄が亡くなって遺体が転がっているわけですよね。ところが政治的に勝った方が、遺体が転がっているのを、動物が食らうに任せるというか、腐るに任せる、放っておけ、埋葬するなという命令を出しているときに、アンティゴネは、命令に逆らえば自分も殺されるというのはわかってはいたが、兄の体を埋葬しようとするわけですよね。それで結局確かアンティゴネも殺されちゃうんだと思うんです。あのアンティゴネの気持、あの感覚に近いといいますか。

つまり、私に言わせると、臓器移植というのは亡くなった人の体をバラバラにして、わざわざヘリコプターを使ってまでして、あるものはこっち、あるものはあっちというふうにそれぞれ持っていくわけですね。あれはね、一言でいうなら「埋葬の失敗」だと思っています。アンティゴネが自分の命を賭してまで、すでに死んでしまった兄であるにもかかわらず、それを埋葬しようとしたというのは、これは人間の根源に触れているところがあると私は思っている。生きている人間にとっての義務のひとつは、亡くなった人間をきちんと埋葬することだと思うんですよね。その失敗なんだと思います。

本来ならば遺体というのは、その人の人生の一部なのです。仏教であれば、普通は火葬してお参りして、お墓にきちんと入れるという一連の流れがありますよね。それをきちんとやったときに初めて、その人を看取ったということが言えるんじゃないかと。つまりそれも込みで、49日とかそのくらいまでも込みで、亡くなった人を労るということだと思います。それがですね、亡くなっているのか亡くなっていないのかわからない、まだ体が温かいような時期にですね、医者がやってきて、しかもコーディネータもやってきて、さてどうしましょうかというような相談が始まって、医者が臓器をとっていくというのは、私に言わせればとんでもないことだと思うんですよね。だから反対。

もう一回言いますけれども、脳死が科学的にみて死なのか死でないのかというのは、はっきりいって二次的で、そんなことには関係なく、原則的にやめろっていうことなんです、要するに。そんなことはやめろといいたい。それが基本的な考えです。ただ、私のように考えない人もいて、自分が死んだ後に自分の内臓が他の人に役立つならどうぞ使ってください、という人もいるわけですよ。そういう人に対してまで、名指しで、あなたそんなことは止めなさいというだけの根拠もないので、そういう人はどうぞ、ご自分のいいように、ということで。だから臓器移植法があってもいいんです。ただし、さっきも言いました通り、臓器移植法というのは臓器移植一般推進法ではなくて、あくまでも臓器移植限定認可法、つまりそういう人はどうぞやることができますという性質をもった限定的な射程をもった法律であり続けるべきだと。

ところが、その根本の性質が変わってしまったので、それは大変よくないと思っているわけです。今後なにかおかしなことが起きるかどうかを注視している最中であるわけなんですが、まさに、子どもからの移植というのが一例だけありましたよね。あれ自殺なんじゃないかということがいわれていまして、つまり原発騒ぎでみんなあっちの方に目が向いているときに、どうやら自殺かなんかで、脳死の子どもの体を…ということですよね。なぜ自殺したのか、どういう状況で自殺したのかそういうことはわかんないわけですよね。プライバシー保護の名の下に関係者がどういう状況にいたのかっていうのはまるでわからない状態にありますので、ひょっとすると犯罪とまではいかないにしても、非常に問題になることが知らないうちになされている可能性があるわけです。こういうこともあるので、注視していかなくてはいけないし、先ほど申し上げた通り、ここ1〜2年法律改正後の移植が随分増えているわけなんですけれども、それが本当に我々日本人の死生観にあったものなのかというのはまだよくわからないので、これは批判的に注目し続ける必要があるだろうと思っています。

——脳死の子どもからの臓器移植をするということに対して、是非を論じるとするならば、どういうところがポイントになってくるとお考えになりますか。

金森: 私はさっきから言っているような考え方をとる。ところで、では例えば、お子さんが非常に重い心臓病をもっている親御さんのグループが100人ぐらいいて、そこに講演に呼ばれて、今私が言ったようなことを言うかというと、なかなか言えないですよね。あなたがたはあきらめて下さいというのはなかなか言えないですよ。だからある意味では中途半端なスタンスで、この問題についての私の考えを何で印刷にしなかったかというと、それが言えないので、やっぱり書けないなというのがあった。書くというのは潜在的にはいろんな人に言って歩くことなわけですからね。それでもやはりこういう状況の中で、そういうことを私はちょこちょこと書き始めています。それはやはりそんなことはやめてもらいたいと思っているからなんですよね。非常に気の毒だとは思うんですけれど。心臓が悪い子どもをもっている親御さんが気の毒なのはもちろん当たり前なんですけれども、だから可能な限り早く、人工臓器だとか代替医療をどんどん進めるべきだと思っていまして、逆に言うならば、もし万が一不幸にして、ご自分のお子さんが非常に小さい時に病気や事故で亡くなるようなことがあったとしたら、私がいったようなことを、つまりきちんと埋葬してあげて下さいというのが、私が言える最大限のことなわけです。もちろんそれは私の個人的願いに過ぎないわけなんですけれども。

最終的には、もらう方にしても、提供する方にしてもご自分の状況とかご自分の死生観に寄るんだろうと思っています。それで10年ぐらい前にこのことについて考えたときに、私、子どもが3人いるんですが、困ったなと思ったのが、自分の息子がね、もしどっちかになったら、どうするだろうか、と。例えば自分の息子が、体を非常に悪くして、私が「人から内臓をもらうなどということはすべきじゃないから、お前もう死になさい」と言えるかどうかというのは、なかなか微妙だなというふうに思っていました。それを女房に言ったら「あんたは人でなしよ」と言われましたけれど(笑)。だけど、それが7歳とか8歳とかでしたらそうです。ところがね、ありがたいことにそういうこともなくて、今一番下の息子が15歳くらいなんですよ。そうするとね、完全にほぼ大人というか半ば自律的な判断ができる。その際、親は参考意見を言うことはできるかもしれない。「これはこっちの方がいいんじゃないか」とか「こっちの方が素敵なんじゃないか」と言うことはできるかもしれない。でも、最終的には息子の自律的な判断で、彼らには彼らのまさに生命観がありますので、それによって決めるでしょう。

生命観、ということでいえば、実はあまり年齢は関係ないんですよね。若者の方が生命観が浅くって、年寄りの方が生命観が深いなんてもんじゃ全然ない。そんなもんじゃ全然ないですね。やはり各個人がそれぞれの経験からつかみとる力というのは人それぞれで違いますので、別に若いから軽薄で年寄りだから偉いという話しでは全然ないというのはご存知の通り。それでいきますと、まさに生命観なんていうものは、化学物質の名前を覚えるとかそういうことではなくて、もっと根源的なことなので、だからこそまさに、子どもだから浅い考えで年寄りだから深い考えだってことはいえないということになる。となると、15歳にもなれば、既にきちんとした生命観をもっていると言っていいと思うんですよね。逆に言うと、少なくとも15歳以上の人間に関しては、その人がどう思うかということを最大限考慮に入れてあげる。つまり、その人が提供したいとか提供したくないという、一定の考えがあるとすれば、それを最大限サポートする。当人の意思に従って、その人の意思を尊重してあげるということは、最低限必要なことなんだろうと思っています。

——親自身にとっても、また年齢を問わず小学生とか中学生の子ども自身にとっても、何か考えるような教育というのが必要になってくるように思いますけれども、どういうタイミングで、どんな方法でそういう教育というのができるのかということについて、アイディアがございましたら、お願いできますでしょうか。

金森: いや、残念ながら私は教育学部にいるけれどまるで教育学者ではないというのがありまして、あまりろくなアイディアがありません。ただ言えるのは、子どもの頃からの発達の過程で、子どもの頃から何でも知ってれば良いってもんでもないということです。例えば、安楽死とか尊厳死などという問題がありますよね。私は、あれは子どもが知らなくても良いと思っています。子どもつまり、小学校の5、6年くらいまでは安楽死なんていうことは知らなくてもいい。高校生ぐらいからは例えば安楽死や尊厳死ってどう思うかとか、そういうことを問題にしてもいいと思うんですよ。それと同じようにこの脳死に関しても、うーんとちっちゃい時に、例えば5歳とか8歳とかという子どもに、判断を求めてもやはり無理なところがあるだろうと思います。さっきの話と矛盾するようですが、やっぱりまだ完全に発達していないのでちょっと無理だろうというのがあるんですよね。そういう子に関してはこういう話題は振らない、むしろ振らない方が良い。

ただもっと抽象的に、子どもなので虫だとかトカゲだとかで遊んでますので、そういうちっちゃい生き物でもちゃんと生きてるんだよねとかね。ミミズ半分にちょん切るにしても一匹、二匹くらいなら別にいいけど、百匹も二百匹もやっちゃだめだよとかね(笑)。トンボの羽をむしるとか、それも同じ事です(笑)。つまりそういうような感じの命の大切さというのは、何気なく教えておくという流れなんじゃないかと思います。それで15歳になってからはある程度知的な形で言うこともできるというわけです。

ただ、これは実感としてわかると思うんですけど、自分の子どもに対してはなかなかあらためて言えないものなんですよね。お互いにただ住んでいて、夕飯食べたりとかそんなことをしているだけなので、私も自分の息子にはなかなか言いにくいというところがあるし、かえって、他人のというか、普通の学生に先生として言うというのはいくらでも言える、ということなんじゃないかという気がしますね。高校の先生だったら今言ったような観点から、命というのは掛け替えのないものなんだということをまず根源的なこととして教えるというのは、高校生にとっても必須でしょう。ただその根源を押さえた上で、命問題のひとつの現代的な事例としてこういうこともあるんだっていうことで、安楽死だとか、脳死臓器移植などという話題を教えておくというのは必要なことではないかと。

一番いけないのは、実は今度放射能教育が始まるということもちょっと心配しているんですけれども、あれと同じように、ある一定の方向に誘導する、つまりもしも子どもの頃、亡くなったら自分で進んで提供するのが善いことだとか、それを拒否するのは非常に利己的で悪いことだとか、そういうふうにある一定の方向に導く教育を中学校の終わりくらいから、まだ子どもかそろそろ大人なのかが微妙な頃にですね、一斉に系統的にやるっていうことでしょうね。それが一番駄目。それは絶対に避けるべきで、あくまでも一人一人の生命観、生死観を尊重できるような基盤づくりをするために、子どもからだんだん発達しつつある大人になりかけている人たちには、そういう話題があるんだということを示唆するに留めるというのが大事だろうと思っています。

もう一度繰り返しになりますが、その前の小学生から中学生の始めくらいまでにかけて、まだ大人とは言えない子ども達に対しては、もっと根源的な虫の命だとかトカゲの命だとか、あるいはもちろん人間の命だとか、そういうものに対する感受性というものを、考えるきっかけをつくってやるということ。若干文脈がずれちゃうかもしれませんが、随分前に、鶏をヒヨコの頃から育てて、最後の最後に十分に大人になった鶏を殺して食べるというのがありましたよね。散々可愛がっているものを殺して食べるというのは残酷だとも言えますし、逆にいうと普段何気なく家でこんな塊で食べてる鶏肉というのも、本当はああやって散々可愛がってもいいような、一つの独立した生き物なんだということを実感させるためにはいいことなんだとも言える。実際に個人的には可愛がってはいないにしても、そういう鶏をわざわざ殺して、食べているんだから、残したりとか、無駄にしたりはしないとかね、そういうようなことを間接的に教えることになりますので、これは一概に悪いとはいえない。生きているということと死ぬってこと、それを具体的に教えることになる。また、動物を殺すってことを我々は普段からやっているということを自覚させることでもある。そういうようなことも含めて考えさせてあげるってことが大事。しかももう一度繰り返しますけれども、そういう時に、一定の方向でこっちの方がいいんだよとか、こっちのほうが奇麗なんだよ、こっちは醜いんだよというようなことを誘導しないということが極めて重要なのではないかと思っています。

 

インタビュー後記

脳死臓器移植に反対の立場である金森さんのお話は、首尾一貫したものであった。「埋葬の失敗」という金森さんご自身の感覚が臓器移植法に関するその批判の根源になっているが、制度的には「臓器提供したい人ができる自由」を確保することも認めている。社会的な制度設計という観点からは見過ごされがちな「臓器提供したくない人が提供を強制されない自由」についてもしっかり留意されなければならない。特にメディアの責任は重い。そのことを改めて自覚したインタビューだった。

 

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