日米の教育の違いを帰国子女という視点から考える

2015年8月27日

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林香織(はやし・かおり)
1997年千葉県生まれ。幼少期にマレーシアとアメリカに計5年滞在した経験をもつ。現在は日本の高校に通っている。大学では脳科学と哲学を学ぶことを志している。




Photo:  target="_blank">Naosuke II.  CC  BY-2.0(cropped)

Photo: Naosuke II. CC BY-2.0(cropped)

アメリカ人と日本人の違いとは何なのだろうか。この問いは、幼少期をアメリカで過ごし、今は日本でアメリカからの帰国子女と触れ合う機会の多い私にとって切実なものだ。私は、それは「自分について深く考えているか、また、友人と真剣な話題について深く議論するか否か」であると思うようになった。少なからずそのような違いがあると思うようになった経緯をここで書きたいと思う。

私は2歳から4歳までマレーシアに、4歳から7歳までアメリカに計5年間在住していた帰国子女だ。マレーシアでは保育園と幼稚園に、アメリカでは2年生の途中まで現地の小学校に通っていた。7歳で日本に帰国して1年生として小学校に編入したわけだが、その当時は自分と日本人との間に差異があるとは感じなかった。むしろ小学校に6年間通った後に中学校に進学したそのとき、同じ学校の帰国子女コースに入学してきた子たちを見て、自分が日本人として彼らとの差異を感じたのである。そして今私は高校3年生で、アメリカの大学に進学したいと考えている。その道において先輩の話を聞いたり、実際にアメリカの大学を訪問したりする度に強く日本人としてこの違いを感じるのである。それは具体的にどのような違いなのだろうか。

私が感じる差異を詳しく見てみよう。一番この違いを感じるのは、自分の夢や哲学や社会問題について深く考察しても、それを共に議論し深める友達がいないと感じるときである。私は日本の高校生として、よく友達と悩み、話し合い、解決を目指しているが、その内容は主に人間関係、試験、恋愛、受験など自分の目の前にある事象に限られている。私は考えることが好きで、哲学について、あるいはニュースで話題になっている事件についてよく思考をめぐらせているが、いくら自分で深く考えても、それらを話し合うような空気が友達との間にないのである。

一方、アメリカの大学に通う先輩の話を聞いていると、授業後や寮などで激しく、ときには一晩中そういった深刻な内容について議論しているのである。私も恵まれたことにその中に入って議論する機会を最近得たのだが、そのとき初めて深い充実感を覚え、帰国後にいつもの友達との会話だけでは物足りなく感じるようになった。より大きなテーマで議論しないまま大学で専門的で狭い学問を学んでも、自分が何の為にそれを学ぶのかがわからないままでよいのだろうか、また、それを役立たせる世界のことを知らないままでよいのだろうかと考えずにはいられなくなったのである。その問いへの答えを導くために、この違いがなぜ生まれるか考えてみたい。

それは教育システムの違いにあるのではないだろうか。私は小学校から日本の学校に通い、初めはほとんどアメリカと日本との間に違いを見出さなかったのだが、小・中・高と進学するにつれその両者のあいだの差がどんどん広がっているように感じた。その原因は日本の教育システムにあるのかもしれない。日本の教育といえば、生徒は机に座り、一方的に先生の話を聞き、定期テストでその内容を問われそれによって成績がつけられるというシステムであろう。

一方でアメリカでは先生の講義のみならずディスカッションやエッセイなどで自らの意見を深め主張する事が重視される。確かに日本の教育システムのもとでも数学などで高校生にしては世界最高レベルの内容を学習できるといった利点はあるだろう。しかしながら、そのような高いレベルの内容を一方的に詰め込まれるからこそ生まれる欠点もありそうだ。特に教育の仕方と、評価の仕方に見られる欠点である。

教育方法に見られる欠点とは、日本では中学高校と進学するにつれ、よい成績を取るために、あるいは受験のために膨大な量の勉強をしなければならないことである。その中で私たちは純粋に何かを不思議だと思って深く理解しようとする好奇心や、自分が何の為に勉強するのか、あるいは自分が何をしたいのか考える機会と時間を奪われているはずだ。

評価の仕方に見られる欠点とは、受験の様式のことである。日本の主流な受験といえば国語や数学や英語などの一回の試験の結果で決まるものを指す。したがって受験に合格させるために必然的に教育方法もインプット重視型になってしまうのである。ここでいうインプット、つまり詰め込み型の教育とは、暗記や数学など、自らの意見を必要としない教科を重視し、自分の意見を述べることや自分の人間性そのものを問わない教育のことである。

アメリカの大学受験においては、対照的に、何度か受けられるSATというテストの結果、学校の成績、推薦状、活動、そして自分について書くエッセイというより総合的に捉えられる人間性で合否が決まる。日本のようなインプット型の教育の中で、私たちが自分のことを深く考える機会を奪われているはずだ。

日本の教育が全てにおいて悪いとは限らないが、アメリカの教育システムに学べるところもいくつかあるのではないだろうか。日本の教育システムのもとでは難解な数学の方程式や社会の論述問題に器用に答えられるようになるが、人としてどう生きるべきか、あるいは社会問題に対しどう取り組むべきかなどについて深く考え議論しづらい空気ができあがってしまう。深く考えないで生きるのも楽かもしれないが、自分が何をやりたいのか、そしてそれを生かす社会についてもっと深く考えることができればより充実して生きられるのではないだろうか。