現代哲学の領域で哲学的な思索を発信している人たちが集い、次世代に哲学を伝える場を作り出す活動の記録を電子書籍版「現代哲学ラボ」としてお届けします。
2016年9月23日に早稲田大学で開催された〈私〉と〈今〉を哲学する——無内包の現実性とは?では、永井均氏をゲストにお迎えし、森岡正博氏と入不二基義氏とトークを行いました。「現代哲学ラボ」第4号は、この時に収録した音源をテキストとして再現し、図や脚注により、解説を加えました。
2016年9月23日、早稲田大学戸山キャンパスにて、第4回現代哲学ラボが開催された。
現代哲学ラボとは、現代哲学の領域で哲学的な思索を発信している人たちが集い、次世代に哲学を伝える場を作り出す活動で、世話人の森岡正博、田中さをりと、賛同人の永井均、入不二基義の4名で運営している。この日は、同年3月に「存在と時間──哲学探究1」を上梓した永井とともに、森岡と入不二がコメンテーターとして登壇した。
事前に着々と資料の準備を進めていた森岡と入不二に対して、永井はこの時すでに次の著作に取りかかっていた。時間の実在性をめぐる議論を展開したマクタガートは、未来から今に向かって時間が動くと述べたが、永井もまた、数ヶ月前から予定されていたこのイベントがこの日に実現した時点で、6ヶ月前に書いた自著の世界から遠く離れていた。考えたことが活字になって読者の元に届き、書かれた内容を深く吟味する頃には、著者自身の関心は別のところに動いている。この記録が公開される頃には、それはさらに遠くなっているはずだ。常に書きながら進んでいる永井の関心事を正面から捕まえるのは至難の技なのである。
至難の技といえば、もう一つ。良い哲学書ほど、議論の展開に触発されて自分自身の哲学を展開したくなるものだが、哲学書の内容を吟味する際には、論脈に忠実に沿うことが求められる。永井は「ひたりつく」という動詞を造語してまで論脈に忠実に沿うことを重要視している。一方で入不二はこの日、永井の「無内包の現実性」には、〈私〉や〈今〉という中心性が残っているため、「それではまだ無内包性が不十分だ」と指摘した。内包とは、概念に含まれる意味や性質を指すが、永井哲学の議論を厳密にするために、内包が無い段階を指す「無内包」の導入について、入不二は過去に提案していた。いつもは本人以上に永井哲学を精緻化することを得意とする入不二だが、この日は、「現実」という概念に何が含まれるべきかをめぐって、二人の「主題の違い」が露わになった。森岡もまた、生命論の立場から、「無内包の現実性」は、私の誕生や死で区切られた「生きられている」状態と独立に存在するようなものなのかが気になっていた。このため、この日のテーマの「無内包の現実性」が、永井の著作の中でどう展開されていたのかについて、登壇者の誰もが完全には追いかけられなくなりつつあった。
しかしそれでもなお、「無内包の現実性」の輪郭がはっきりした瞬間が幾つかあった。永井の主題において、今もって手放せない論点がどこにあるのか、入不二との議論の中で明確に語られた。また森岡の指摘により、インド哲学との接近の可能性についても示唆された。
ここからは、この現代哲学ラボで記録した音源をできるだけ忠実に再現した議論の内容をお届けする。「あれ」や「これ」などの指示語、ジェスチャー、板書の内容もできるだけ補足しながらそのまま残した。今回は前回と違って愛の論点は含まれないが、知に対する孤独な愛の断片を見つけて頂きたい。
現代哲学ラボへ、ようこそ!
(本編は以下の電子書籍にてご覧ください)
哲楽編集部 編
語り:永井均・森岡正博・入不二基義
定価:370円
2016年7月8日に早稲田大学で開催された「生まれる」ことをめぐる哲学では、加藤秀一氏をゲストにお迎えしました。「現代哲学ラボ」第3号は、この時に収録した音源をテキストとして再現し、スライドと脚注により、解説を加えました。
2016年7月8日、早稲田大学戸山キャンパスにて、第3回現代哲学ラボが開催された。今回のゲストは、社会学者で明治学院大学教授の加藤秀一氏。生命の問題について哲学と社会学の垣根を越えて考えてこられた方で、曰く、「社会学者としての白い私と、哲学者としての黒い私がいる」が、このうちの黒い方の立場として、「人々の考えは間違っている。正しい考えはこうだと言いたい」と。
加藤氏が人々の認識の改訂を迫ろうとしている主題は、現在の視点から過去や未来を思い描いてなされる発言に含まれる、ある矛盾である。そのうちのひとつが、「生まれてこなければよかった」という発言だ。この言葉を、自分でも言ったり、思ったりしたことがある人もいるかもしれない。
加藤氏は、この発言の裏にある心情に理解を示しつつも、ここには論理的な矛盾があると指摘する。なぜなら、本当にその人が生まれてこなかったとしたら、その人自身はこの世にはいない。このため、現に生まれて生きている存在と、生まれていない非存在を比べること自体が不可能である。この比較不可能性がある限り、「生まれてこなければよかった」だけでなく、「生まれてよかった」という発言も意味をなさないはずだ、と。本来〈誰〉として指示できないはずの存在者を指示した上で、何かと比較して、価値判断する行為そのものがここでの問題の中心にある。
加藤氏のこの問題意識を支えるのは、ある直観である。約10年前に出版された『〈個〉からはじめる生命論』から引くと、「「生命」や「いのち」という抽象名詞に拠ってあなたや私の存在を肯定するという企てが、なにか決定的な矛盾をはらんでいるように思われる」。だからこそ、加藤氏はどこまでもこの矛盾にこだわるのだ。
ここで「生命」という言葉が抽象名詞であるという指摘自体にも、はっとさせられる。私たちは、「生命」が人間の本質であるかのような言葉遣いのなかに生きている。「生命の質」や「生命の価値」という言葉で、ある対象には生命という実体があるものとして、その属性の性質や価値について論じることがある。加藤氏は講演で、ロングフル・ライフ(Wrongful Life)訴訟という実際にあった事例とその判決内容を紹介しながら、そこにある〈存在と非存在の(当事者視点からの)比較不可能性〉という論理を丹念に提示していく。
もうひとつ、加藤氏がこだわるのが、未来世代の人の生命の価値を論じるときの問題である。例えばある女性が十四歳で子どもをもつという選択をした場合と、二〇歳で選択した場合では、生まれてくる子どもは同一ではないはずである。にもかかわらず、二〇歳での選択が推奨されるのはなぜなのか。加藤氏は、未来に存在する人は、数的な同一性を確保できないため、こちらも〈誰〉として指示できない存在者であるという。従ってここでも比較不可能に陥り、未来における誰と誰が同じなのか、誰と誰が違うのかと問うこと自体、意味をなさないはずだと。
私たちが、「生まれてこなければよかった」や、「もう少し後の方が生まれてくる子どもにとって幸せに違いない」と言うとき、過去や未来の向きに自分や他人の人生を再設計しようとしているかもしれない。このとき、加藤氏が指摘する矛盾をどのように回避しているのだろうか。そこにあるのは、信念なのか、信仰なのか、欲求なのか。加藤氏の問いに答えようとすると、自己の実感を確かめざるを得ず、それがこんなにもスリリングなものだったのかと気づかされる。
ここから先、当日収録した音源をもとにした記録をスライド画像と写真ともにお届けする。後半の森岡正博氏による誕生肯定論の展開と、愛の論点についての対論も注目されたい。ここで、第一回の入不二基義氏に続き、また「愛」かよ!と思った方もおられるかもしれない。今回は、倒錯した愛であります。
現代哲学ラボへようこそ!
(本編は以下の電子書籍にてご覧ください)
現代哲学ラボ第3号――加藤秀一の生む/生まれることをめぐって
哲楽編集部 編
語り:加藤秀一・森岡正博
定価:370円
2015年12月12日にホテル&レジデンス六本木で開催された「永井均氏に聴く:哲学の賑やかさと密やかさ」では、永井均氏をゲストにお迎えしました。「現代哲学ラボ」第2号は、この時に収録した音源をテキストとして再現し、図表と脚注により、詳細な解説を加えました。
哲楽編集部 編
語り:永井均・森岡正博
定価:360円
はじめに
2015年10月9日に早稲田大学で開催された「運命論を哲学する——あるようにあり、なるようになるとは?」では、入不二基義氏をゲストにお迎えし、森岡正博氏とのディスカッションを行いました。「現代哲学ラボ」第1号は、この時の様子を忠実に再現した、待望の記録です。
現代哲学ラボ 第1号 ——入不二基義のあるようにありなるようになるとは?
哲楽編集部 編
語り:入不二基義・森岡正博
定価:360円
現代哲学の領域で哲学的な思索を発信している人たちが集い、次世代に哲学を伝える場を作り出す活動として、不定期に講演会やトークイベントを開催します。現代哲学の先端の話題を、そのレベルを落とすことなく、専門家以外の人々へと開いて交流していくことを目指します。哲学初心者の方や、大学生、中高生の方の参加も歓迎します。開催形式は、大学の教室を利用する教室形式と、カフェやスタジオを借りるカフェ形式のいずれかで行ない、参加費は無料の場合と有料の場合があります。
■ これまでの開催案内
第0回準備会 森岡正博「ロボット社会における生命」