映画『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』を観る

星野 太(ほしの・ふとし)

2011.12.16

(2011年10月3日収録)
若き美学研究者である星野太さんと『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』を観賞後、映画の内容と星野さんご自身のご活動についてインタビューしてきました。普段芸術作品を制作している作家さんと対話している星野さんの目に、サルトルとボーヴォワールの批評し合う関係はどう写ったのか、また、彼らの思想が本国以外で同時代的に受け入れられた背景に何があるのか、伺いました。

質問事項(抜粋)

  1. 美学について(0:35)
  2. ご専門の「崇高」概念について(1:54)
  3. 芸術作品に対する批評活動について(03:43)
  4. サルトルとボーヴォワールの批評の関係について(06:57)
  5. 作品の価値を高めるための理想的な関係について(09:38)
  6. 日本の哲学カフェと、サルトルとボーヴォワールがいたカフェ・ド・フロールについて(13:02)
  7. 作品を生み出す苦しさ、焦りについて(15:17)
  8. 外国でサルトルとボーヴォワールの思想が同時代的に受け入れられた現象について(22:22)
  9. 本国での哲学的思想の受容はかえって遅れがち?(25:23)
  10. 本国の哲学者について研究することの制限について(28:14)
  11. 古典を読むことと、作家さんとの対話について(30:43)
  12. 高校生が哲学を学びたいと思ったときのとっかかりについて(32:32)
  13. 『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』の見どころ(34:23)

リンク


田中

改めまして田中です。今日は東京大学の表象文化論という研究室を修了されて、日本

学術振興会のPD研究員をされておられます星野太さんと『サルトルとボーヴォワール』

という映画を観てきましたので、その報告をしたいと思います。星野さん、今日はよ

ろしくお願いいたします。

星野

よろしくお願いします。

田中

星野さんの研究の内容について教えて頂きたいんですけれども、美学とは何かという

ところを高校生にもわかるように教えて頂けないでしょうか。

星野

はい。私は学部生のときに美学芸術学という研究室に所属していました。美学の研究

対象というのは色々なところで聞かれることなんですけれど、大きく分けて(1)観念

的な対象としての美、(2)芸術作品(これを対象とするものは芸術学と呼ばれること

もあります)、(3)より広い意味での感性を対象とする哲学的な研究、それらを含め

て美学と呼びます。自分の場合は、三番目の感性的な領域を対象とする研究を主にし

ています。

田中

今博士論文を執筆中ということで、テーマが「崇高」という概念について、歴史的に

どう捉えられてきたかということを中心に書かれているということですが、ーーフラ

ンスにも行かれたということがあるということでーー崇高概念の共通性というものが

明らかになってきているのでしょうか。

星野

はい。もともと自分は修士の時はフランスの20世紀の現代思想を中心に研究をしてお

り、ジャン=フランソワ・リオタールというフランスの哲学者の崇高概念の研究をし

ていました。その後博士課程に進学して、フランスのリヨンというところに留学して

いたんですけれど、その時に、現代にかぎらず、古代から初期近代にかけての崇高概

念の生成と受容という、系譜学的研究を自分の研究の中心に据えようと思いました。

それ以降は、偽ロンギノスによる紀元一世紀の『崇高論』という著作が当時の古代ギ

リシア・ローマの文脈にどう位置づけられるかということと、それが17世紀以降のヨー

ロッパ各国でどう変容していったかということを中心に据えた博士論文を執筆してい

ます。

田中

何か芸術作品をご覧になったりそういう活動もなさっているんですか。

星野

そうですね。主に現代美術に関して、批評を書かせてもらったりもしています。後は

時々実際に作家さんとトークイベントで作品について伺ったり、伺うだけではなくて、

作家の方とお互いフィードバックし合えるようなこともやっています。

田中

作家さんというとどのような種類の作家さんになるんでしょうか。

星野

よくお話しするのは、いわゆる現代美術と呼ばれる、造形を中心に扱っている作家さ

んで、あとは映像や絵画など使っている媒体は様々ですけれど、自分と同じくらいの

年代の作家さんとお話する機会をもたせてもらっています。

田中

そういう表現活動をする人にとっては、コミュニケーションの相手が論理的に自分の

作品について批評してくれると、創作活動に対して良いフィードバックになっている

と想像しますが、実際どのような評価を頂いているんでしょうか。

星野

そうですね。僕は大学院の時に東京大学の表象文化論という研究室に所属していたの

ですが、ここの研究室では、演劇をやっている人もいるし、自分のように哲学をやっ

ている人もいるし、美術や音楽など色々な研究分野の人がいました。いずれにしても

創作の現場というか、単に作品があってその後に理論が追随するというのではなくて、

理論について考えている人間と、実際に物を創っている人が、生産的に、ベタな言い

方をすればお互いに刺激を与えられるような、そういうあり方を理想として強くもっ

ていらっしゃる先生が多い場所でした。自分もおそらくそうした雰囲気の中にいたお

かげで、作品の解説をはじめとする受け身の立場で話すのではなくて、なるべくお互

いにとって良い影響をもてるようなスタンスで対話をしています。

田中

今日観た映画の中で、サルトルとボーヴォワールがお互いに批評し合っているシーン

が多くあったんですけど、二人の場合は、表現者同士で、同じ哲学というフィールド

で批評し合っていました。その辺はどうご覧になりましたか。

星野

そうですね、僕もそのシーンは印象に残っています。この映画に即して言うと、二人

の関係――恋人というかパートナーシップ――というのはある時点からすごく淡白な

感じになっていると思うんですよね。ボーヴォワールがアメリカ人の恋人に引き止め

られながらも、執筆に行くからと言って、サルトルと同じ部屋で机を並べて執筆をし

ている。映画の中ではサルトルがボーヴォワールの後ろにいて、ずっと執筆を見守っ

ているシーンがあって、それはやっぱり演出だとは思うけど、ある程度そういう形で、

お互いが執筆をする上でのパートナーシップというのをすごく強く持っていたんだな、

というのが映画の中で印象に残ったところです。

田中

お互いに辛辣に、「ここを書き直せ」とか「ここがダメな点だ」というのを言ってい

るシーンが多かったのですが、星野さんは普段、作家さんの方に率直な形で批評もな

さるんですか。

星野

それはやっぱり相手との関係によって変わってくるところだと思うんですよね。何度

も顔を合わせて、お互いに率直なことが言える場合は、こちらからも作品について自

分なりのジャッジをしますし、向こうもこちらが書いたことに対して色々言ってくれ

ることもあります。もちろん誰に対してもそういうふうに話せるわけではなくて、ど

うしてもお世辞的に話してしまうことも中にはあります。

田中

色んな批評の空間を作っておられると思うんですけれど、サルトルとボーヴォワール

の関係と、批評のあり方について何かお感じになったところはありましたか。

星野

サルトルとボーヴォワールの場合、やっぱり恋人関係から始まっているので、複雑に

なりますよね。

田中

作品の純度というか、作品の価値ということに焦点を当てると、どういう関係性でど

ういう批評をすれば、より作品の価値が高まると思いますか。

星野

有り体にいえば、「率直に」ということでしょうか。特に今日の映画のサルトルの言

い方は辛辣なことが多かったんですが、そういう辛辣な言葉を時には放つような関係

というのが――彼らの場合、恋人どうしであるという関係を抜きにしても――大きい

と思います。つまり、馴れ合いにならないような環境ですよね。

田中

それが個人と個人の間で可能なのか、あるいはフランスの――この映画の中でもあり

ましたが、カフェという場があって、みんなが言いたいことを言える場があって、ご

飯も一緒に食べて、そういう場を共有しながら、お互い批評し合っているというのが

いいのかどうかという疑問があったんですが、個人同士がいいのか、集団の方がいい

のか、というのはどうなんですかね。

星野

そういう意味で言うと、今日の映画って、もともとフランス語のタイトルが『フロー

ルの恋人たち』というもので、カフェ・ド・フロールという、当時サンジェルマン=

デ=プレにあったカフェがメインの舞台になっているんです。当時のサンジェルマン

=デ=プレというのは、カミュやポール・ニザンなどの作家たちが沢山集まって自由

に朝から晩まで議論しているという場だったんです。アーティストも、ピカソやジャ

コメッティが入り浸っていた。これは想像するしかないんですけど、当時のカフェの

環境というのは、完全にクローズドでもない、完全にオープンでもない、そういう雰

囲気があったと思うんです。というのは、もちろん家と違って、お客さんとしてそこ

に集まる人が沢山いる。ただ、サルトルを中心とした有名人の席にいきなり誰でも入っ

て行けるわけではなくて、ある程度顔見知りであるとか、議論したいとか積極的に入っ

ていかないと入れない場がそこに出来上がっていた。そういう半分オープンで、半分

クローズドな場所があったというのが、当時のサンジェルマン=デ=プレのある種の

盛り上がりにとってすごく大事な要素だったんじゃないかなと思います。

田中

最近日本でも「哲学カフェ」という催しがあって、「哲学カフェをします」と言って

哲学について語る場をあえてカフェの中で作るという試みが増えています。そのモデ

ルになっているのが、きっとフランスの今日の映画に出てきたようなカフェだったん

だろうなというのを思いながら観ていたんですが、場を設定して、誰かが司会を担っ

て、テーマについて話すというのと、サルトルとボーヴォワールのように生活が批評

し合う時間の一部になっているというのが、ちょっと違うなということを感じたんで

すが、その辺はいかがですか。

星野

そうですね。そういう意味では多分哲学カフェの方が、場の設定としてずっとオープ

ンだと思うんですよね。そしてオープンな分運営が難しいとも思うんです。根本的な

問題として、ディベートの訓練とかそういうものから始めなければいけないという問

題があると思います。議論をしても良いという場にいきなり来た時に、どうしていい

かわからないという状況が往々にしてあると思うからです。さきほど例に出した、サ

ンジェルマン=デ=プレのある種のサークルが、知識人たちの限定されたセミオープ

ンな場であるのに対して、今の哲学カフェの場合はもっと広くて、哲学に興味がある

人なら誰でも参加して良いということになっている。だから対象の幅は広いんだけれ

ども、その分みんなが共有している前提とか、議論をしたい水準がばらけてしまう。

そこでオープンな哲学カフェを運営していくためには、ある種のノウハウが必要だな

とは思います。

田中

実はすごく苦しい営みだったと思うんですよね。苦しいと言っては変ですが、作品を

生み出す過程のなかでのひとつの時間だったと思うので、その辺も何かお伝えできれ

ば良いと思ったんですが、いかがですか。

星野

今日の映画の中の、サルトルとボーヴォワールの関係はファッショナブル過ぎると思

うんです。いま田中さんが仰ったように、当時の彼らにとっての執筆というのは恐ろ

しく切実なことだったと思うんですよね。それは戦時中だったということもあるし、

第二次大戦のあとで、いかに生きていくかという切実な問題があって、すごくひりひ

りとした環境でみんな書いていたはずなんだけれど、今ではだいぶ時代が離れている

ということもあって、それを一般にアピールする形で表象しようとすると、どうして

もああいうエピソード的なもの――恋愛のもつれとか戦争とか――を表層的にモンター

ジュしていくしかないというのが、難しいところですよね。もちろんそうしないと映

画として成り立っていかないというのはすごく良くわかるんですけど、ファッショナ

ブルな受容というのはあのような映画に共通してある問題だと思います。

田中

今日の映画に関しては、男女の迷いみたいなところに焦点が当たっていたと思うんで

すが、実際にものすごく焦っていたと思うんですよね、ああいう文脈で想像すると。

そういう焦りのところを、哲学者として伝えて頂ければと(笑)。実際今論文を書か

れてるので、ひと文字ひと文字、焦りってあると思うんですけど、いかがですか。

星野

難しいですね。「焦り」ということで印象的だったことがあります。映画の前半でサ

ルトルが「28歳までに有名人になれなかった人間はずっと無名のままだ」ということ

を言っていました。その種の焦りというのは社会的なステータスという意味での焦り

ですよね。そういう切迫感というのは多分誰にでもあると思うんですが、今の質問で

言われた「焦り」というのはそれとは違う焦りだと思いました。つまり執筆を苦しみ

ながらも進める上での焦燥感というものがあると思うんですよね。文章を書く、あら

ゆる人間にあるのかなと思います。一方では「早く作品にしないと」とか、自分だっ

たら「早く博論書かなきゃ」みたいな(笑)そういう外部から要請される焦りが一方

ではあって、他方ではあまり急ぎ過ぎてはいけないという、実際書かれた物のクオリ

ティをしっかりと維持するという――それをどのように維持できるかは分からないわ

けですが――そういう焦燥感とのダブルバインドは、哲学に限らずあらゆる文章を書

く人に言えるのかなと思います。

田中

例えば、哲学的な文章を書く人に特徴的な焦りというのがもしあるとしたら、どうい

うものだと思いますか。

星野

それは圧倒的に生活が苦しいということだと思うんですよね。自然科学の研究者と一

番違うのは実際そういうところだと思います。つまり、書かれる内容、研究内容がど

うこうというよりも、食えないという焦りが絶対的な焦りとしてあると思いますね。

田中

書いたところで今以上に良いステータスがあるわけではないというところで、それで

も何か自分で残していきたいという焦りが相対的に大きいような気がするんですが、

焦りの種類として、どういう焦りを感じているのかというのを。

星野

焦りはどうなんでしょうね。感じているのかな。今の質問に対する直接のお答えでは

ないかもしれないんですが、少なくとも哲学に典型的な特徴として言えるのは、読者

が極端に遠い人間である可能性が高いということです。例えば自分に限らずですが、

我々は未だにプラトンやアリストテレスが当時手書きで書いたものを――誰かが写本

にコピーして、誰かが図書館に所蔵して、今は活字に印刷されたものを――読んでい

ますよね。例えば、時代はもう少し近いですが、ニーチェのある著作は自費出版で30

部しか刷られなかった。もう一人挙げるとすれば、アメリカのチャールズ・サンダー

ス・パースという哲学者は、存命中はとても不遇で、亡くなった後に彼の著作や草稿

が今でいう記号論の形成に多大な影響を与えた人として広く読まれています。そうい

うアナクロニックな(時代錯誤的な)読者の存在、つまり時間的にも地理的にも隔たっ

ている読者を獲得しうるというのが――他の分野と比べてですが――相対的に哲学と

いうある学問分野で物を書いている人間のひとつの大きな希望なのかなとは思います。

田中

焦りと希望がちょうどセットになって話がまとまったなと思って、伺っていたんです

が。ボーヴォワールがアメリカに行くシーンが今日の映画の中であって、多分フラン

ス語で講演したと思うんですが、英語で講演したんでしょうかね。通訳がついたのか

ちょっとわからないんですが。その当時、ボーヴォワールの著作が英語に訳されてい

て、みんながボーヴォワールという人がどういう哲学的考えを持っていたのかを知っ

た状態で、受け入れていたんだと思うんですが、そういうかえって同時代的に受け入

れられるというのは、稀なんでしょうか。

星野

そうですね。今日の映画の中で、サルトルもボーヴォワールもアメリカ中を回って講

演をするという場面がありました。今日の映画のパンフレットでも強調されていまし

たが、戦後の哲学者の中でも、サルトルは世界的に受容された例外的な哲学者の一人

ですよね。それはひとつには、彼の実存主義という思想が(表面的にではあれ)普遍

性をもって世界的に読者を獲得できたということがあると思います。同じくボーヴォ

ワールの方も、女性の問題ですよね。特に「第二の性」という問題に関して、狭いヨー

ロッパの中の問題としてではなくて、アメリカもアジアも含めた、すごく普遍的な問

題について書いたからこそ、あれだけの読者と運動を獲得したんだなということは言

えると思います。今日、映画を観るにあたって読んだある文章の中で書かれていたん

ですが、サルトルとボーヴォワールは日本にも来ていて、そこで保育所や団地を訪れ

たという記録が残っているんですね。日本に来た時も、団地や保育所などの具体的な

生き方に関わる問題に対して彼ら自身もおそらく興味を持っていたし、日本に彼らを

招聘する側としても、今日本で起きている問題に対して彼らがどう考えるかというこ

とを期待していた。日本でもアメリカでも、そういう知識人は(一般人も含めて)多

かったのかなと思います。

田中

特に外国での、例えば日本の視点で見ると、日本から見たフランス哲学の受容や、ア

メリカから見たフランス哲学の受容というのはすごくあったんだなというのが今日の

発見で、かえってフランス本国でボーヴォワールやサルトルを研究する制度は比較

的遅れたという話を先ほどお聞かせ頂いたので、本国の哲学の受容のされ方は遅れが

ちなのかという点に関して、どういうふうにご覧になっていますか。

星野

広い意味での哲学全般と、大学の中でのアカデミックな哲学が乖離しているというの

は、フランスでも最近までそうだったと思いますし、日本でも同じくそういう状況が

あったと思います。例えばフランスでサルトルを研究することは、ある時期まで難し

かった。あくまでもサルトルというのは「フィロゾフ・ポピュレール」、つまり有名

な哲学者で、いわゆるauthenticな(本物の)哲学者ではないと考える人も一定数いた

し、今でもいると思います。今ではサルトルの著作を哲学的に研究しようという人は

フランスでも日本でも沢山いますが。一般的に言えば、哲学科で教えられる哲学とい

うのは、ある程度権威化され、古典化された哲学でなければならないという伝統がずっ

とあったし、今でもあると思います。そういった意味では、フランスではサルトルや

ロラン・バルトなどはアカデミズムのなかで不遇な時代が長かったと思います。ただ

時代も大分経って、今ではサルトルの研究はほとんどの場合問題なくできます。そう

いうタイムラグですよね。それは日本でもありますし、普遍的な現象なのかなと思い

ます。

田中

今の高校生が、今まさに活躍している日本の哲学者について研究したいと思っても、

まずギリシャから、時間も文化も空間的にも遠いところからまずやりなさいというこ

とを言われて、「自分の問題意識はそこじゃなくて、日本のある哲学者のこの思想が

自分の問題の解決に役立つから読みたい」と言ったとしても、制度の中ではそれを良

しとしないような雰囲気があるんじゃないかなと思うんですけど。その辺をアカデミッ

クなところに身を置かれている星野さんはどのようにお感じになっていますか。

星野

それについて僕は両義的な感情を持っています。現代の哲学者の本を読んで、自分の

問題として考えることは、もちろんすごく良いことだと思うんですよね。ただ、それ

を大学の専攻の研究としてやるのは制度的な問題として難しいかもしれない。逆に言

えばそれは別に研究しなくてもいいじゃないかとも思うんですよね。研究しようと思

わずに自分で考えればいい。もうひとつ言えるのは、いわゆる大学の制度の中で哲学

を勉強しようとする場合、歯がゆい思いをする人も多いと思うんですが、それはそれ

で視野は広がると思うんですよね。良く言われることだけど、現代的な問題というの

は古典的なテキストの中に現れているとかね。それは古典研究の中でわりと常套句に

なっている言葉です。そうしたことを大学の研究として実践し、他方で現代の自分の

身の回りの問題にも同じように(卒論で書くのとは別の仕方で)関心を持ち続けるの

は大事なことなのかなと思います。

田中

星野さんご自身は、ギリシャ時代の哲学書と対話をしながらも、現代を生きる作家さ

んたちともコミュニケーションされているということで、両方やっぱり必要だという

ことはお感じになっておられますか。

星野

そうですね。一方では自分は今、自分の体を伴って、日本という地理的な場に生きて

いるので、そういう現在の地点から何かを考えたり話したりしています。しかしそう

いうことをしながらも、頭のなかでは古代や近代の文献を読むことを通して考えると

いうか、自分の思考の様式をなるべく複数に保っておくというのが、いわゆる批判的

な思考と呼ばれるものの中核にあると思います。自分の立ち位置からだけ物を考える

というのは、ある意味では貧しい視点しか持たないことになるので、自分の視点や立

ち位置を複数化するきっかけとして、古典に向かうというのはすごく重要なことだと

思います。

田中

これから大学で哲学を学びたいと思っている高校生ももしかしたら聴いてくれている

かもしれないと思うので、諦めないでギリシャ語を勉強しなさいというメッセージに

なるのかなと思いますが(笑)。まず何をとっかかりにしたらいいかということを教

えて頂けますか。

星野

そうですね。別にギリシャ語を勉強しなくても良いと思うんだけど(笑)、英語と英

語プラスもう一言語を勉強するということが最初かなと思います。僕自身はフランス

語が高校の頃から好きだったので、大学でも主にフランスの哲学を勉強していたんで

すが、外国語を学ぶというのが一番効率よく自分の思考の仕方を変える方法だと思う

んですよ。これは留学すると痛感するんですけど、外国にいるとある考えを自分が持っ

ていてもそれを言葉にできない、伝達できないということがよくあるんですよね。自

分の思考がある別の言語を通さないと伝達できないという環境に身を置くと、日本語

で思考して、日本語で話す自分が相対化されていきます。考えている自分と、話して

いる(社会的な)自分の分裂を意識するうえで、外国語の習得というのは――単に外

国語を知識として勉強するということではなくて――哲学的な思考を養う上で本質的

な訓練だと思います。

田中

なるほど。外国語というのをひとつのキーワードに、高校生の皆さんにも哲学の感触

を味わって頂ければと思います。サルトルとボーヴォワールが外国でどういうふうに

受け入れられたのかというのを見て頂くのも良いのではないかと私自身は思いました。

何かお薦めどころを最後にお願いできますか。

星野

さっきの外国語の話と絡めていいですか。フランス語がわかって、ある程度理解して

観ると結構面白いポイントがあると思います。フランスの現代の常識だと、恋人どう

しは「テュトワイエ」といって「君=テュ」と呼び合うんですけど、映画のなかのカ

ミュやサルトルやボーヴォワールは、みんな「ヴ=あなた」と、日本でいう敬語に当

たる「ヴヴォワイエ」で喋っている。あとは、普通ならファーストネームで呼び合う

ところを、彼らはほとんど名字で呼び合っています。ボーヴォワールが何度も何度も

「サルトル!」と言っているんだけど、あれは現代の感覚だと変な感じです。多分そ

れは当時の時代的な雰囲気だったのかなと思いますが。そういう意味でも、単に字幕

で追っていくよりも、フランス語が分かったほうが面白いです。外国語の話に絡める

とそういうところがポイントかなと思いました。

田中

わかりました。紹介記事のほうも楽しみにお待ちしたいと思いますので、今日は遅く

までお付き合い頂きありがとうございました。

星野

ありがとうございました。

写真

星野 太(ほしの・ふとし)
1983 年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程単位取得満期退学。日本学術振興会特別研究員として「崇高」概念の思想史的研究に従事しながら、映画や現代美術などの批評を行っている。