なぜ子ども時代の問いを持ち続けられたのか

2014年9月1日

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永井均(ながい・ひとし)
1951年東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。専門は哲学・倫理学。千葉大学教授などを経て、日本大学文理学部哲学科教授。『〈子ども〉のための哲学』等、著書多数。最新書として、2014年9月に日本経済新聞出版社 より『哲おじさんと学くん』を上梓。

なぜ子ども時代の問いを持ち続けられたのか

永井均さんは日本大学で哲学を教えている。哲学好きな読者ならば知らない人はいない、現代の日本の哲学を牽引してきた哲学者の一人だ。34歳で『〈私〉のメタフィジックス』を上梓してから、平均して年に一冊の著作を発表し続けている。難解でとっつきにくいというのが哲学の一般的なイメージである日本国内で、このペースで新刊本が次々に書店に並べられる、作家としての哲学者は数少ない。過去には、朝日新聞や日本経済新聞でもその随筆が連載され、大学で高校生と保護者向けの説明会を開けば、愛読者も詰めかける。それが哲学者、永井均さんだ。

Photo: Saori Tanaka

桜の新緑が眩しい4月のある日、編集部に永井さん自ら自転車で駆けつけて下さってインタビューが実現した。〈私〉の問題が最初に心に生じたのは、永井さんが5歳の時で、小学生の時の教室の風景が今でも記憶にあるという。「後ろから3番目で右から2番目の人が僕だな、それはなんでなんだ?」と考えたという。スペイン史が専門の歴史学者、岩谷十次郎さんが小学校一年から六年生まで担任の先生で、永井少年は後に哲学的大問題に発展するこの疑問を直接口にする事はなかったものの、他の突拍子もない発言に、岩谷先生は「なるほど」と頷き、「そう考えるのは偉いね」と誉めて下さった。その頃の永井少年は、ご両親から「消極的」と称され、お母様にひとつの課題を与えられた。それは、通りを行く知らない人に声をかけて道を尋ねるというもの。永井さんはこの時のことをこう振り返っている。「劣等感の過剰克服っていうのがあるじゃないですか。何か劣等なことを訓練すると逆にそれが得意になっちゃうことがたまにあって、そういう風な意味で妙に、大人しかったにもかかわらず、そのことをやたらにやっているうちに、むしろ、知らない人にも平気で話しかけるような人になっちゃうとかね。僕はね、性格的にはそういうところがあって、二重性があって、どっちが自分の本当の性格だかよくわかんない時があるんですね。それはそれによって開発されたかもしれない」

性格的な相対する二重性は永井さんの幼少期からのお人柄の特徴であり、それは哲学をするうえでは「複眼性」となって機能しているようだ。おそらく、いつでもどんな人にでも「なれる」からこそ、そのなり手の起源である「私」の方が哲学的謎だったのかもしれない。そのことを尋ねると、永井さんは頷き、少し考えて、「そうかもね、本来の人格がないっていうことなのかもね」と笑った。

インタビューのために自転車で編集部に到着するとすぐ、永井さんは新緑の桜が見える窓側で、編集部スタッフに瞑想の仕方を教えて下さった。目を閉じて、息をゆっくり吐きながら、ひとつずつ数えて、「鳥が鳴いているな、子どもの声が聞こえるな、と思ったらまた息に意識を集中させましょう」と。今、〈私〉の哲学は、坐禅や瞑想を経て、どこかに向かって哲学的に進化しているというよりは、それが生まれた場所へ帰る途中なのかもしれない。

 

インタビュー

(写真・インタビュー:田中さをり)

――インタビューを始める前に一つお願いさせて頂いていたことがあります。『哲学の密かな闘い』という、ぷねうま舎から2013年に出された本の中から最初のページを少し朗読して頂きたいと思います。

永井:はい。「人間は動物ですから、生物学的な理由で生まれてきます。生物としての人間の一器官である脳は意識を生み出すので、脳があれば人間としての精神状態や心理状態が生まれます。ですから、世の中に人間がたくさんいて、多くの脳が意識を生み出していることは不思議ではありません。これは科学的に説明できる事態です。しかし、一つ不思議なことがあります。そのように意識をもつたくさんの人間のうちの一人が、なぜか私である、ということです。多くの人間がいて、様々な精神が存在するが、その中で私であるという特別な在り方をした人間はただ一人です。どうして、そんな例外的な在り方をしたやつが、一人だけ存在しているのでしょう。」

――もう一つですね、約30年前に書かれた先生のデビュー作である『〈私〉のメタフィジックス』から朗読をお願いしたいと思います。

永井:「「他我問題」は通常つぎのような形で設定される。およそ私が体験しうる精神的・心理的諸状態は、すべて例外なく私自身のものであり、私が他者の精神的・心理的諸状態を体験することはありえない。私が他者について体験できるのは、外にあらわれた彼の身振り、表情、発声、発言といったものだけである。それゆえ、他者のその種の外的表出の背後に、実際に精神的・心理的諸状態が生起している否かは、私にとってつねに謎であるはずであり、さらには、そもそも諸々の精神的・心理的状態がそこに生起しうる精神や心が彼らにあるのかどうか(つまり彼らが私と同様に「我」であるのかどうか)さえ、私にとっては謎であるはずである。にもかかわらず、私は通常、外的表出の背後にある人々の心理的状態を問題なく理解しており、ときとして「振りをしている」のではないかと疑うことはあっても、すべての場合にそうするわけではない。いわんや、彼らに心があるかどうかを疑わしく思うことなどはまったくない。それはなぜであろうか。そこにはどのような機制がはたらいているのだろうか。」

 

子ども時代の問い

――ありがとうございます。今、読んで頂いた理由ですけれども、問いがすごく重なっているように私には思えて、30年近い時間を、この間21冊ぐらい本を出されているのですけれど、変わっていない問いをずっと出されているというのが永井先生の特徴の一つだと感じていました。日本の文化や、哲学という学問分野の中で、こういう子どもの頃の問いを持ち続けて、哲学という分野の言葉で書き続けていくのは二重に困難だったように思うのですけれども、なぜそれができたのかお聞かせいただけますか。

永井:二重ってどういうこと?

――二重というのは、日常生活でも日本人であるということで、哲学的な会話ってあまりないですよね。その中で子どもの時からその問いを持ち続けられてきたということも難しいと思いますし、哲学科に入ったら入った段階でいろいろな他の哲学者の本を読まされたりして、自分がこれをやりたいと思って哲学科に入ってもそれをやり続けることってすごく難しいと思うんですね。ですので、哲学科に入るまでの持ち続けられた難しさと、入ってから後もそれがずっとできたっていうのが、そういう意味で二重に難しかったのではないかと。

永井:まあ哲学を始める前は別にそんなに難しくなくて、それが生じてしまったから生じただけで、別に特に何か自分が何かしたってことはないわけですね。こういう問題が何か感じられたから、感じられただけですから。まあそれはしょうがないと。たまたまそうだったということですね。

――何か文章に書かれたことはあったのですか? 哲学科に入る前に。

永井:あったといえばありますね。作文とかそういうもので。中学校の時とかに。こういうことを私は考えている。まあでも基本的に国語の先生ってのはみんなこういう問題を理解しないですね。先生で理解しがちなのはむしろ理系ですよね。これは学科で分類すると、こういうのは文系でかつ国語の先生みたいなものに作文とかで言うしかないけど、国語の先生は私の知る限り、こういう問題は決して理解しないっていう法則があるんですね。これが面白いところですね。

――理系の先生というと?

永井:数学の先生。

――こういう問題だというのを理解した?

永井:ということを理解した。そういう問題はあると。

――ある!

永井:あると。

――その時初めて自分が書いたことを、「そういうことってあるよね」と認めてくれる人がいたっていうことですか?

永井:そうですね。初めてというか。

――書いたものに関しては。

永井:そうですね、はい。

――言葉にされたことっていうのはもうちょっと前にあったのではないですか?

永井:あったような、ないような、よくわからない。自分でもはっきりしてないですからね、子どもの頃はね。だから言うっていっても、こんな今読んだような形でしっかり言うことはできないですから。だいたいそもそも通じるような形で言えないから通じないってこともありますよね。こういう風にちゃんと書けばわかる人でも、何か子どもがごちゃごちゃ言っても何言ってるかわかんないと思うでしょうから。

――こういう問いが生じたっていうのは、一番最初は何歳ぐらいだったか覚えていらっしゃいます?

永井:一番最初の小さい時、小さいっていうのは幼稚園ぐらいですよ。

――本当ですか!?

永井:ええ、そうですね。漠然とずっと、物心とともにあったっていうか…。まあ物心というよりも、まあもっと、2、3歳ぐらいだとすると、もうちょっと大きい5歳ぐらい。

――5歳!

永井:漠然とあったと思いますよ。記憶、今の記憶じゃなくて、「小学生ぐらいの時に、その頃のことを思い出していた記憶」を今思い出すとそうですね。小学生ぐらいの時はむしろ、言葉で言える程度のことはもう思っていたと思いますね。

――何か覚えている風景はありますか?幼稚園や小学校の時で。

永井:風景?

――例えば、お友達がいっぱいいる風景で自分だけが、みたいな…。

永井:そうそう。「このたくさんいる中で何でこいつが俺なんだ」ということを、何か時々教室の中でみんなで並んで座っている時に思いましたよね。「後ろから3番目で右から2番目の人が僕だな」と。「それは何でそうなんだ?」みたいな感じですね。それを感じたのは小学校の3年か4年ですね、教室で思ったのは。

――その時の担任の先生には?

永井:いや、言ってない。その時は担任の先生には。小学校の時には言ってないと思いますね。作文にも書いてないし。

――沈黙の時代だったんですか?

永井:まあ、あんまり自分でもはっきりしていないから、どう言っていいかよくわかんないんです。これ、言うの結構難しいですから。

――そうですよね。

永井:言い方がない。言い方をトレーニングしないと、訓練しないと。これは哲学的訓練ってまさにそうですよね。「こういう問題をどういう風に表現するか」ということを訓練するのに哲学が役に立つということですよね。他のやり方はないから。これはまさに哲学しかないですね。哲学の言い方を学ぶしか、こういう感じていたことを表現する方法は多分なかったでしょうし、実際にないですね。

――今、「子どもの哲学」という形で、教室で哲学対話をやろうっていう試みもなされていますけど、そういうのがもし永井先生の時代にあったとしたら言えていたかもしれないですか?

永井:それはそうですね。そういうのがあったらね。

 

哲学科で生まれた関連した問い

永井:哲学を始めてから、何でこればっかりをやっていたのかっていうことはまあ非常に簡単なことで、このことにしか興味がないから(笑)。哲学っていう言葉を学んで、議論の仕方っていうか、言い方を学んだだけで、哲学の他の問題っていうのは基本的には、このことを言うためのテクニックを学ぶためのものにすぎなかったから、これ以外のことは何ら重要じゃないと。だんだんこの問題を深く考えるうちに、哲学の他の問題が実はこれと全部関連しているという確信を持つに至って…。さっき読んだ二番目の方は関連している方の問題ですよね。最初に読んだ、最近書いたものの方が原初的な問題ですね。小学生や幼稚園の時に考えたのは、最近書いて最初に読んだ方の『哲学の密かな闘い』の方で書いていることの方ですね。それで「他人の感じていることがわかんないじゃないか」って話はむしろ後から派生的に出てきて。これは哲学の議論の中にすでにある問題ですよね。

――ああ、そういう意味で関連している…。

永井:関連している問題。この問題は、本当は、僕が最初に、小学校や幼稚園の時に持った問題との関連でしか意味を持たないだろうと。だから他我問題って本当は、僕が考えたような問題との関連付けなしには本当は意味がないと。そういう問題なんだという確信を持って。みんな他我問題を論じてきた今までの人はいっぱいいるわけですけど、日本だったら大森荘蔵とかね。偉いとされているけど偉くないと。彼は問題のポイントは本当はつかんでいないと。あるとき確信して。他我問題は似てるけど、その他のあらゆる問題も、こういう種類の問題とつなげないと意味がないっていう風に思ったんですね。

――でもその時、34歳ですよね。最初の本を出されたのが。

永井:うん、そうですね。

――結構チャレンジじゃないですか? 若いので…。

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永井:だから34歳の時に『〈私〉のメタフィジックス』を出したけれども、『〈私〉のメタフィジックス』は妥協的な本で、基本的には自分の本当に言いたいことは第1章の最後のところにちょっと出てくるだけで、全面的には出してないんですね。だけどその時に、通常考えられていた他我問題とか、倫理的な問題とか、そういうものを考察する本の形になっているんですね。だから本当にばっと打ち出したわけじゃないんですよね。ばっと打ち出しているのはむしろ最近なんですね。

――それはやりにくかったっていうのがあったのですか? 哲学の本として出すには何かと関連付けないといけないという。

永井:それよりはむしろ、自分がちゃんとつかんでなかったのですよね、やっぱり。真正面からそういう風に全部を自分の観点から捉えるほどには全面的に把握してなかった。だけど「こういう問題もあるでしょ?」っていう感じでちょっとこう匂わせる形に。

――自信がなかったっていうことですか?

永井:自信というよりは能力ですよね。自信はある意味ではあったんだけど、力がなかったというか。

――今の60代の先生から見れば。

永井:そうですよね。

――読み返されてみてどうですか? まだちょっと深まりが足りないと思われますか?

永井:いや、今読んだ限りのところは全部その通りだと思うけど、他我問題は独立に存在するような問題ではないと思います。それで「なぜか一人だけ「私である」という特殊な在り方をしている奴がいる」っていうことから生じる問題であって、一般的に「他人の意識が感じられない」とか「他人はもしかしたら心がないんじゃないか」っていうような懐疑論っていうのは、それ自体を取り上げれば大した問題じゃないっていうか、本質的な問題ではないと思います。

――その当時、他我問題がホットトピックだったわけですか?

永井:これはウィトゲンシュタインですよね。この問題を本当に流行らせたというのはね。だからウィトゲンシュタインもこの問題を論じたけれども、ウィトゲンシュタインは明らかに、僕が感じていたような問題を感じていたからこの他我問題を出したんだけども、多分解釈者はみんな誤解したと思うね。

――なるほど(笑)。日本の哲学という分野も特殊だと思うので、海外の人にもお伝えしやすいように補足したいと思うんですけれども、ウィトゲンシュタインの哲学が日本に入ってきて、翻訳として日本の哲学の学生が読めるようになったのはどのぐらいの年代ですか?

永井:あれはね、僕が大学生の頃にウィトゲンシュタイン全集が翻訳され始めましてね。それまでにも翻訳はありましたけどね。『論理哲学論考』と『哲学探求 一部』が法政大学出版会から出ていたので、翻訳はあったんだけど、その中間的な『ブルーブック』とか、ああいうものがどんどん出始めたのは、僕がもう大学から大学院になる頃ですから、わりあい後からですね。まあウィトゲンシュタインも、そもそも全面的に理解されてはあまりいなかったんですね。

――最初の翻訳が出された当初?

永井:そうです。僕はウィトゲンシュタインに一番感動したのは『ブルーブック』という、当初はそんなに注目されていなかった、まあ主著とされていたのは『哲学探求』とそれから一番初期の『論理哲学論考』だから、『ブルーブック』に注目する人ってあまりいなかったと思いますけれども、僕はその『ブルーブック』と、それからその同時代に書かれた『私的体験と感覚与件に関するノート』という、これはノートですけど、この二つが圧倒的に素晴らしいと勝手に思っております。

――その子どもの頃からの「なぜこの私が私なのか」という問いとウィトゲンシュタインの問題がちょうど重なったのが大学院生の時。博士課程にいらっしゃるくらいですか?

永井:いや、それが完全に重なって、これで哲学という形で自分の問題をやっていけると思ったのはやっぱり修士課程の時ですね。学部の時は「それはどうかな」と思って、「上手くやれるかな」と思ってたけど、修士課程は「これでいける」という感じがして。それはウィトゲンシュタインのおかげですよね。

――なるほど。それはちょっと感動的な話ですよね。

永井:そうです。本当にそうですね。それはもうウィトゲンシュタインっていう人がしかも偉い人とされていたわけですよね。だからこれ、業界でやるにも「ウィトゲンシュタイン解釈」という形で言うことによって自分のことが言えると。

――なるほど。

永井:そうじゃなきゃ言えないですよ、これね。だからたまたま偉いとされている人が自分と同じ種類の問題を持っていて、かつ他の人がそれを気づいていないということがあったおかげで、自分の言いたいことが言える突破口を見つけたんですね。これ偶然ですよね。

――そしてそれが翻訳が出された当初で、まだ手垢がついていなかったと。

永井:それもそう。しかも『ブルーブック』は大森荘蔵先生が訳されて、大森さんもその『ブルーブック』を非常に買っていたから。もちろん当時権威者でもあったから、非常にこう、少なくとも日本国内では土壌はあったから、そのおかげで解釈的な議論と、自分の話とつなげるのがまあよくできたと。僕はだからラッキー。そういう意味ではね。

――今、大学院で自分のテーマを見つけようと思っている人も多いと思うんですけれど、そういう仕方で波に乗るっていうのはありえるわけですね。

永井:そうそう。それ、偶然だからね、僕の場合は。本当にね。たまたまよかっただけで。上手くいかない可能性はいくらもありますよね。そんな人がいなかったら駄目だし。ウィトゲンシュタインみたいな人がいなかったらね、どうしようもないしね。いない場合はあると思うんですよね。だから何かある独自の問題を考えていて、それが今までの哲学の中に誰もそれに似た問題を考えていた人がいないか、いてもマイナ—であるか、それ自体があんまり知られていないっていうこともありうるから、そうしたら新しい問題を提起するっていうのは非常に難しいですよね。

――そうですよね。

永井:うん。非常に難しい。だからどこかにきっかけになる人で、且つちょっとメジャーな人がいないと話を始められないというところがあるんですよね。これはちょっと恐るべきことですよね、ある意味では。だって哲学なんて新しい問題出していいはずなのに、出せないもんね。

――それは日本に限った特徴なんですか?

永井:どこでもそうでしょう。

――外国でも?

永井:だって、特にアカデミックな哲学はこれまでの文献との連関でしか業績とかだせないシステムになっているから。これは、私はとんでもない間違いだと思いますけどね(笑)。これまでのものなんか一切無視して新しいことをいきなり言っていいんだと思いますけど。それが哲学だと思うから、もうシステム自体間違っていると思うけどね。

――でも、タイミングとしては、先生は…。

永井:だから僕の場合にはラッキーだった。

――ラッキーとおっしゃいましたけど、24歳ぐらいで権威的な人が訳されている権威的な人の本が手に入って、それを土台にして学会でも発表されたでしょうし、本にもなったということですね。

永井:はい。

 

子どもの問いをなぜ持ち続けられたのか

――ありがとうございます。ちょっと前の話に戻りたいのですけども、ご両親との対話で何か記憶に残っていることってありますか? 最初に読んで頂いた問いの内容に関してですが。

永井:関連してはね、この話は親には言ってない。

――小学校の先生にも言ってないということですよね。

永井:小学校では言ってない。親にも先生にも言ってないです。先生にも、中学の時にも、口では言ってないですからね。書くんだから言えたんですよね。

――ちょっと前伺った話では、小学校の時の先生がすごく変わった先生だったということなのですけど、何か小学校時代の先生が哲学の問いを持ち続けられたということに関して影響を与えているとしたら、どうですか?

永井:それはですね、結構、この今の問題については言わなかったけど、いろんなことを、勝手なことを言っていたんですよ。小学生のくせに。それでその時に割合認めてくれたと。覚えているのはですね、修学旅行だか何だかで、磐梯山のとこ、何て言うんだろう、あれは? 会津若松か。何かああいうところにいって、その時にあそこは有名な「小原庄助さん」っていう歌があるじゃん。「何で身上潰した 朝寝朝酒朝湯が大好きで」とか「それで身上潰した」って。小原庄助と白虎隊の二つが有名なんですよ。それで小原庄助さんってそういうくだらない人なのね。朝寝朝酒朝湯で身上潰した人ね。で、白虎隊はもちろん立派なものとされているわけですね。で、僕はその日、「でも本当に偉いのは小原庄助さんの方だよね」って(笑)。だと僕は思うって言ったら、先生褒めてくれたんですよ(笑)。その時ね、今思うとその先生が偉いと思うんだけど(笑)。観点の持ち方だけは確かに、白虎隊ってまあ犬死になんですね、実は。単純に。誤解して、城が燃えていると思って、お互い刺し違えて死んじゃうんだけど。若いのにね。若い十何歳でしょ。そんなときにそうやって、全然無駄ですよね。それに比べれば小原庄助は自分の楽しいことをやって、身上潰して死んだんだから全然いいじゃんと。だからずっと小原庄助さんの方が偉い人っていう話を小学生の分際で言ってみたんだけど、そしたら先生は怒るというか、反対するかと思ったら、何か一緒に「それは大したもんだ」とか言って、そういう風に思うのは偉いっていう感じで言ってくれた(笑)。そういう肯定的な観点を教えてくれた。やっぱり何か自分でものを考えることの自信を持ちますよね。

――そうですよね。何か言ってみようっていうきっかけになりますよね。

永井:そうそう。そういう意味でいい先生だったですね。

――どんなことでも、非常識なことでも…。

永井:基本的に非常識なことでも、何か考え深い人で、「なるほど」という感じて、いろんなことを「なるほど」と(笑)、そういう能力を持っている。

――それは永井先生に限らずクラスのみんなに対して?

永井:そうでしたね。あんまり先生っぽくなかった。だって学者っぽい人だったから、自分が。だからあんまりちゃんと教えなかったし。自分の専門を教えていた。小学生に歴史ばかりやっていたし。

――岩谷十二郎先生ですね。

永井:そうそう。地理は教えないで、社会の時間は全部歴史だし(笑)。

――しかもスペイン…。

永井:スペインはさすがにいかなかったけど、日本のキリシタン史みたいなね。

――なるほど。すごい大学者(笑)。

永井:小学生の時に学者に教わったから。

――でもそこもラッキーといえばラッキーですね。

永井:まあそうですよね。

――何か言いにくいことでも疑問の形で自分の意見を言うことができた。それを許される環境にあった。

永井:それはそうだと思いますね。

――ご家庭ではどうですか? お家に帰って何かこういうことを思うんだけど、というのは言いやすい環境でした?

永井:そういう意味ではあまり厳しい親ではなかったですよね。何か「こうしなきゃいけない」とか「ああしろ、こうしろ」とか言わなくて、別にそんな哲学的議論をするような人とか、そういうことではないけど、なんでも好き勝手にさせてはくれた。

――「宿題しなさい」もなかったですか?

永井:あんまり何か言わなかったですね。僕はその頃はどちらかっていうと、その頃の言葉で「消極的」って言われたんだけど。「あなた消極的だ」って。消極的な人間と。何か消極的って言葉が今でも覚えているんだけど(笑)、積極的にならなきゃいけないって言われて、まあようするにそれは引っ込み思案とかそういう意味。何か変な訓練をさせられて…。

――訓練?

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永井:変な訓練。何かそこに行って知らない人に道を聞いてみろとか(笑)。それが面白いのは、それをやってみると結構面白くて、知らない人でも必ず親切に教えてくれるんですよ、子どもなんかが聞くと。そうするとね、むしろ好きになっちゃって、道を聞くのが大好きになっちゃって(笑)。劣等感の過剰克服っていうのがあるじゃないですか。何か劣等なことを訓練すると逆にそれが得意になっちゃうことがたまにあって、そういう風な意味で妙に、大人しかったにもかかわらず、そのことをやたらにやっているうちに、むしろ何ていうか、知らない人にも平気で話しかけるような人になっちゃうとかね。僕はね、性格的にはそういうところがあって、二重性があって、どっちが自分の本当の性格だかよくわかんない時があるんですね。それはそれによって開発されたかもしれない(笑)。

――あまり今は推奨されないですよね。「知らない人に声かけなさい」とは。

永井:今はそうだよね。

――それが小学校時代で、中学校時代で初めて作文でご自身の問題を文章にされて、高校時代はどんな学生だったか覚えてらっしゃいますか?

永井:高校生はですね、高校生も似たような感じなんだけど、特別なことといえば高校3年の時は学生運動をやったので…。

――ええっ!

永井:別に、世の中がそういう風になっていたこともあって、高校、ちょうど1969年ですね、70年大学入学だから。その時にいろんなそういう運動が流行って、流行ったというか巻き起こったわけですけど。別に僕は中身にあんまり感動、心を動かされたわけではなくて、普通の高校生は何かやってられない気分だったんで、とにかく何かやらないと気がすまない。何か運動みたいなものでいいんですね、普通じゃなければ。今から見るとああいうことがみんな流行ったからみんながやったかのように見えるけど、そんなことはなくて、高校ってのは一学年千何百人もいる大高校だったけれども、まあほんの数人ですよね、その中で。

――運動に携わっていたのは。

永井:学年の中からほんの数人ね。学年全部あわせたって10人ぐらいで、まあ一学年で本当、3、4人ぐらいのもんですよね。

――偉い方だったんですか?

永井:偉い方でしたね。3年生だったからね、学年もあるじゃないですか。ある種の理論的指導者にならなきゃなんないし…。

――理論的?

永井:理論的には私が指導者だったんです、本当に。何が問題であるかっていうことを。これは政治的な問題じゃなくて、何か例えば今やっている勉強というものは本当はなんであるかっていうようなことを追求する運動なんだ、みたいなことをね、言って。

――格好いいですね。

永井:ええ。それでいろんな集会みたいなのを開いて先生を、吊し上げまではいかないんだけど、「この勉強はそもそもなんのためにやっているのか言ってみろ」みたいな感じで(笑)。「答えてみろ」と。でもね、それ、やっぱり誰も答えられないんだよね、本当はね。自分たちが何をやっているのかってのは自分だってわかんないんだけど、先生だって知らないよね、それはね。何でこういうシステムになっていて、こういう科目を教えなきゃいけないのか。それは何のためになっているのかってのは、本当は誰も知らないってことに、まあ元々わかっていたけど、やっぱり誰もわかっていないってことがわかったのはありがたかったっていうか(笑)。まあ、そういうもんなんだなと。実は誰もわかっていないんだなと。本当は何かそういう惰性でこういうカリキュラムになって授業科目も決まっているから、それをやっているだけで、なぜこの科目が必要で、なんでこういうことを教えるのかって本当は、なんの役に立つかとか、役に立たなくてもどういう意味があるのかとかね、そういうことって誰も考えていないです。

――何人ぐらい先生をそういう追求の的にしたのですか?

永井:先生も、何というか、偉い人がいるじゃないですか、先生の中にもね。そういう風な主任みたいな人が出てきて、何か集会みたいでやるんだけど、結局やっぱり本質的なことは誰も言わない。

――永井先生は質問する側だったのですか?

永井:質問、まあ追求する(笑)。ただ運動だから、当時はほら、流れとしては政治運動ですから、もっと政治的なことをやりたい子どもが多いわけですね。で、僕はだからそういうものもいいけど、もっと本質的な問題があるっていう形で理論的指導者だったから(笑)。ちょっと毛色の違うものになったと思うよ、他の学校と。

――その当時の政治的な目的っていうのはどういうものだったのですか?

永井:だから例えば70年だったら安保条約の改定とか、そういうものがあるじゃないですか。そういう政治的な問題もあるし、まあその他様々な政治的課題があって、そのこととの関連で学校のあり方を考えるっていう方向を…。当時高校生でさえセクトがありましたからね。いろんな中核派、革マル派、なんとかかんとかとかあって、それぞれに高校生セクトってのもあったわけだから。それから指導されるような闘争方針みたいなのもあったんですよね。

――今の文脈で言うと何か原発の汚染水のような問題に学校としてどう考えるかみたいなことを…。

永井:そうそう。そんな感じで言って、その方針が上部から出てきますね。僕はもうちょっとこう実存主義的に、「自分が今あるところから考えなきゃ駄目や」みたいな。「上から来た政治課題を言っていたんでは駄目でしょ」みたいなことを言って。でもこれ結構説得力があったと思うんですよ。

――成功をおさめた感があったわけですか?

永井:いや、そのことに関してはね。でもあれ成功する可能性はないんですよね、この運動は。何か「賃金あげろ」とかそういうのじゃないから。

――確かに。

永井:本質的なことだから、結局運動としては何の成果もあげないものですよね、本質的にね。まあ僕にとってはいわば一種の哲学なんですよね、それは要するに。

――(笑)もう始まっていたんですね。

永井:運動とは言っても。哲学しかできない人間なんですよね、本質的に(笑)。何やっても哲学で、運動とか言っても。

――面白いですね。そこで大学では哲学科にいこうとある時に思われたわけですよね。

永井:もうだからそれは最初から思っていました。

――高校一年生ぐらいですか?

永井:高校生の時からもうずっと思っていました。

――その当時何か哲学書を読まれたりしていたのですか?

永井:その当時も哲学入門書みたいなものとか軽いものは、もう中学生の時から読んでましたけど。高校生のくらいは、その頃流行っていたマルクス主義系のものなんかはものすごくたくさん読みました。

――運動のためもあって?

永井:うん、関係もあるし、その当時、廣松渉とかああいう、今はもう有名だけど、出始めの頃とかああいうものはほぼすでに。あと吉本隆明とかね、ああいう当時流行っていたものは…。

――一人で読破(笑)。

永井:もう全部読破するぐらい(笑)。彼らが書いたもの少なくとも全部読んでたかもしれない。

――それについて誰かお友達と議論したりという関係は?

永井:ということもありましたけどね。あと、マルクスの本とかね。『経済学・哲学草稿』が当時有名だった、流行ってたのもあって、そういうのは非常によく読みました。

――でもその中で、小さい頃からの疑問をその文脈でどう表現しようかなと迷われていたと思うのですけれど、哲学科に入ってそれができるという自信はあったのですか?

永井:いや、それはなかったですね。もう他にいくところはないし、まあ食べていくためには例えば経済学部とかいった方がいいかなとかいうのはあることはあったけど、別に、特に選ぶのに困ったなんてことはなくて、哲学やるしかないと。

――哲学一本?

永井:一本でした。本当に。

 

本インタビューは哲楽第6号と「哲学者に会いにゆこう」でお読み頂けます。

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