手話の哲学入門〈2〉

2017年6月21日

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田中さをり
障害児教育、 哲学、情報科学を学ぶ。情報科学分野で手話の韻律情報の研究に従事し、千葉大学にて2008年に博士(学術)を取得。現在、ウェブ制作、編集、プログラム開発などに従事しながら、学術広報活動を続けている。ウェブアプリ「旅手話」(tabisyuwa.com)、インタビュー本『哲学者に会いにゆこう』(ナカニシヤ出版)がある。


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前回のお話はこちらから 手話の哲学入門〈1〉

 

手話-口話論争のジレンマ

前回は、身振り・手話・音声・文字というモードに、連続性と非連続性があるのかもしれない、という話をした。今回は、手話についての価値判断をめぐる歴史的な背景を見ていこう。

現代まで各国で論争が巻き起こってきたテーマのひとつに、聾学校での学習言語には、「手話」と「口話」のどちらが適切なのかという問題がある。口話とは、文字通り、口で話すことである。

京都の聾学校で数学を教えていた岡本稲丸は、聾教育の現場での手話と口話をめぐる対立のもとには、「西洋流精神(口)・身体(手)の二元観」があると指摘している[1]。岡本のこの指摘は、問題のありかを鋭く見抜いていると思う。言語の構音器官が口より奥にあるのが音声言語のため、音声言語の方が「精神」により近く、手話の方が「身体」により近いという想定のもと、音声での教育の推進派は、身体から遠く「心」に近い音声言語の方が、人間固有の「理性」を発揮するものと考えた──口話主義の思想をこのように整理すると、確かに様々な主張の一貫性をつかみやすいからだ。

さらに、今、特に何の説明もなく使った、言語・精神・身体・心、そして理性。これらは、古代ギリシア以降の哲学者たちの議論において鍵となる概念であり、こうした概念をめぐる哲学上の議論と「手話-口話論争」は、実はつながっている。だからこのテーマは、手話と哲学の両方を専門にしてきた私としては、哲学に関心のあるすべての人たちにぜひ知ってもらいたい。

古代ギリシア哲学との接点については、長くなるので次回以降に改めて触れたいが、この「手話-口話論争」は、アリストテレスをことの始まりとして、各地の神学者・哲学者・教育学者・心理学者などを巻き込み、一種のジレンマとしても引き継がれてきた。今回は、こちらのジレンマと、聞こえない人々のアイデンティティの問題に焦点を合わせて、歴史的な事情を説明したい。

聞こえない子どもにとって、手話が最も適切な学習言語であることを仮に認めたとしても、音声言語話者が多数を占める社会の側が、多様性に寛容で、マイノリティの権利を擁護する姿勢でなければ、大人になった本人が生きづらいことになってしまう。これが教育する立場として、どちらか一方に決めることが難しいものとされてきた「手話-口話論争」のジレンマだ。

二つの転換点

歴史の中で、一つ目の転換点になったのは、1880年のミラノで開かれた第2回国際聾教育会議だといわれている。手話の使用を聾教育の現場で禁止するとした決議は、2010年のバンクーバー会議で覆されるまで130年ものあいだ影響力をもち続け、口話主義が教育の現場で優勢となってきた。

バンクーバー会議でなされた宣言が二つ目の転換点となった。この宣言は、日本語に翻訳され、文部科学省のウェブサイトにも掲載されているので全文はそちらを見ていただきたい[2]。ここではひとつだけ宣言の内容を挙げておこう。

 

  • 国家が合法的に承認する言語に、自国のろう市民の手話を追加し、多数派である聴者の言語と平等に取り扱うことを、すべての国家に要求します。

 

このバンクーバー会議での宣言と前後して、2006年に国連の改正障害者権利条約で手話が言語として明記され、2011年には日本の障害者基本法が改正されて、次の規定が追加された。

 

  • 全て障害者は、可能な限り、言語(手話を含む。)その他の意思疎通のための手段についての選択の機会が確保されるとともに、情報の取得又は利用のための手段についての選択の機会の拡大が図られること[3]

 

言語に手話を含むとしたこの規定を受け、現在では、各地の自治体で手話言語条例が制定され始めている。こうして、日本における「手話-口話論争」のジレンマは、社会の側が手話を言語として認める法整備を進め、手話を聾学校の学習言語に使える環境を整える方向で、解消が図られようとしている。

 

生き方への誇りとアイデンティティ

「手話-口話論争」のジレンマは、聞こえない子どもたちを教育する立場から見たものだったが、聞こえない人自身の考え方を示すものとして、バンクーバー会議の宣言では、「ろう市民」と「聴者」という言い方がなされていることに注意してみよう(英語で「ろう市民」は「their Deaf citizens」でDが大文字になっている)。

これは、世界中の聞こえない人たちが、聞こえる人たちの社会に過度に迎合することなく、自身の手話言語に誇りをもった存在として、認知されるようにすべきだという提言でもある。学校での教育方針が揺れ動くなかでも、聞こえない子どもたちは、立派な大人になってきた。

日本では、そうした人々が使ういくつかの呼称がある。日本手話を使う言語的少数者を意味する「ろう者(聾者)」。さらに、ろう者とは別に、音声言語を獲得後に聴力を失った「中途失聴者」や、聞こえの程度に注目する「難聴者」。複数の障害を合わせもっていることを示す「重複障害者」。聞こえない親の元で育った聞こえる人もいて、こちらはコーダと呼ばれている。全日本ろうあ連盟と、全日本難聴者・中途失聴者団体連合会という、それぞれのニーズを社会に訴える活動をしている団体もある。こうした主体を指す言葉は、聴力の程度だけでなく、自分自身をどう規定していくかというアイデンティティの問題が関わるため、どの呼称を使うか、どの団体に所属するか/しないかは、その人自身の選択でもある。

なぜ、呼称がアイデンティティの問題に関わるのかというと、聞こえる人々の世界では、長らく聴力と言語能力がむすびつけて考えられてきたためだ(私自身は、聞こえない兄とともに成長する過程で、こうした世間的理解を逆に学んでいった)。そうした理解のもと、補聴器などで聴力を補いつつ音声言語の世界で生きるのか、聞こえないままの状態で手話言語を使って生きるのか、必要に応じてその両方を使い分けるのか、ほかのさまざまな選択をしてきた多様な人々がおり、それは、自身の生き方への誇りや、アイデンティティが深く関わっている。

もう少しわかりやすく示すために、ここでこんな思考実験をしてみよう。例えば、今あなたに、こんな手紙が届いたとしよう。

「生物の中でも人間だけが言葉を持っていて、それは感覚のなかでも第六感が支えていると昔の偉い哲学者が言っています。これからは、社会の大事なことを第六感保持者だけが集まって決めます。あなたは検査の結果、第六感が欠如していることがわかったので、どうやら言葉で思考する能力はなさそうです。したがって教育を受ける権利も、相続する権利も放棄してください。また、あなたの子どもも第六感が欠如していることがわかったので、将来のために脳の手術をする必要があります」。

私がもしこの手紙を受け取ったら、第六感がないことがそんなに特別で重大なことであることに驚き、同じ境遇の人たちに相談するだろう。そして、第六感がない者としての自覚を新たに形成して、反論のために準備をするはずだ。ろう者の歴史は、これと重なるように思う。

それから、「手話」の方にも、独自の文法をもつ「日本手話」と、日本語の語順に従う「日本語対応手話」、その二つの「混合手話」(中間型手話、ピジン言語とも言われる)があると言語学ではいわれている。

ただ、ろう者/中途失聴者/難聴者/コーダと、日本手話/日本語対応手話/混合手話/音声日本語が、主体とその使用言語としてかっちりと対応しているわけではない。また、生命倫理の問題としては、聞こえないことを治療の対象にするのかどうかをめぐって、ろう者たちの共同体と、聞こえない子をもつ聞こえる親の間で緊張関係があることも知っておきたい[4]

さらに詳しく知りたい方は、以下の関連する本もぜひ手にとってほしい。

 

■ 今回のテーマに関連する本

手話だけで話が進行する空間を体感しながら、手話の世界を学ぶ

日本手話の視点で手話言語条例をめぐる課題を知る

コーダの人たちの実体験を知る

日本手話の言語学について学ぶ

 

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[1] 岡本稲丸『近代盲聾教育の成立と発展―古河太四郎の生涯から』, NHK出版, 1997年,  p. 449。

[2] 文部科学省 資料(2)「バンクーバー2010 新しい時代: ろう者の参加と協働」http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/giji/__icsFiles/afieldfile/2010/09/08/1297399_1.pdf (2017年6月8日アクセス)

[3] 障害者基本法、内閣府 http://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kihonhou/s45-84.html(2017年6月8日アクセス)

[4] 新生児聴覚スクリーニング検査や人工内耳の意思決定やサポートの問題が、生命倫理の問題として指摘されている(上農 正剛「聴覚障害児教育における言語資本と生命倫理」九州保健福祉大学研究紀要 6, 81-87, 2005年)。