功利主義を専門とする倫理学者、児玉聡さんの思い 

2012年1月30日

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児玉 聡(こだま・さとし)
2002年京都大学大学院 文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。 博士(文学)。現在、京都大学大学院文学研究科 准教授。『功利と直観―英米倫理思想史入門』により、平成23年度の和辻賞(日本倫理学会)を受賞。

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「児玉聡さんの研究室は、東京大学本郷キャンパス医学部の古いほうの建物にある。廊下には生命医療教育 研究センター CEBL(Center of Biomedical Ethics and Law) の看板。ここは、国内最大規模の医療倫理に 関する研究拠点で、児玉さんは倫理学の専門家として参画しているのだ。京都大学に入学した当初の児玉青年は、 生命倫理学の常識的な言葉さえ知らなかったという。日本に生命倫理学を導入した加藤尚武先生の授業で倫理学を学び、その面白さに目覚めて研究を始め、 倫理学の主要な学説の一つである「功利主義」の専門家になった。 つい先日、和辻賞受賞という快挙を成し遂げた気鋭の研究者でもあるのだ。」哲楽3号pp.3-10より。

児玉先生にわかりやすく解説して頂いた「功利主義とは何か」もぜひお聴き下さい。

 

インタビュー抜粋

田中
あらためまして田中です。今日は医療といのちの哲学というテーマで、私どもが編集し
ております高校生からの哲学雑誌『哲楽』という雑誌の特集号の一環として、東京大学
大学院に御所属の児玉聡先生の研究室におじゃましております。児玉先生、今日はよろ
しくお願いします。

児玉
よろしくお願いします。

田中
今日は特別に、中学校と高校で哲学と数学の授業を教えてらっしゃる村瀬さんにもご同
席頂いています。ちょっと私の質問なんかが分かりにくかった場合は中学生目線で質問
を頂ければと思います。よろしくお願いします。

村瀬
よろしくお願いします。ちなみに村瀬智之といいます。

田中
児玉先生にお伺いしたいのですが、京都大学で哲学の研究をなさってこられて、いまは
東京大学大学院の医学系研究科公共健康医学専攻医療倫理学分野の講師の先生としてお
仕事をなさっているということですが、生命倫理学という分野に関心をもたれたきっか
けについて教えて頂けないでしょうか?

児玉
はい。まず生命倫理学について紹介した方が良いと思います。
生命倫理学というのは、医療とか生命科学(ライフサイエンス)にかかわる倫理問題を検
討する学問のことです。最近たとえば脳死・臓器移植・臓器売買、こんな話も問題になっ
ていますが、代理出産、他人から卵子をもらって妊娠・出産するといった生殖医療の問
題もあります。また、iPS細胞とかES細胞などの話も聞くこともあると思うのですけれど、
そういった幹細胞を用いた研究や、人体の臓器の一部を、臓器を作ったり組織の一部を
作ったり、また身体の一部を修復するという再生医療の問題などです。そういったもの
が生命倫理学で問題になっております。
生命倫理学は、医療倫理学と呼ばれることもあります。私の講座などでは医療倫理学と
呼んでいます。両者は違うという人もいますし、同じだという人もいます。人によって、
国によって呼び方が違います。どちらかというと医療倫理学の方がより病院や臨床医療
よりの話で、たとえば、終末期医療とかインフォームドコンセントなどを問題にする傾
向があるように思います。
なぜ私が生命倫理学に関心をもったかという話を次にしようと思います。なぜかと言わ
れると困るのですが、外在的な理由と内在的な理由があると思います。「外在的」とい
うのは、たまたま自分が研究していた京都大学で生命倫理を勉強するための環境が整っ
ていたということです。もう一つ、「内在的」というのは、やはり自分の理論的な関心
から、ある程度、生命倫理を研究する必然性があったのではないか。あまりそういうこ
とを言えるかどうか分かりませんし、この二つもなかなか切り分けにくいのですが、外
在的な理由から話してみたいと思います。
もう二十世紀の終わりの話になってしまうのですが、京都大学に入りました。入ったと
きは哲学を勉強しようと思っていました。京都大学文学部に入ったら、千葉大学からちょ
うど移ってきた加藤尚武先生が教授をされていて、応用倫理学の授業をしていました。
それが非常におもしろい授業でした。加藤先生に会うまで、恥ずかしながら、「ヒトゲ
ノム」といった言葉も知らなかったですし、「代理母」という言葉も、加藤先生の授業
で当てられてからはじめて知った次第で、ぜんぜん知らなかったのです。そこで生命倫
理学という分野があることを知りました。もう一つは、京都には古くから加茂直樹先生
がやっていた京都生命倫理研究会というのがありまして、わたし自身は当時顔を出して
いなかったのですが、そこに顔を出していた先生や院生がたくさん周りにいたというこ
ともありました。そういう雰囲気があったので、先輩の院生や京都大学の医学部の人た
ちと一緒に、生命倫理の勉強会をやったりしていました。そのときにやっていたのは、
外国の文献を読むなどで、ピーター・シンガーの書いていた本などを読んでいました。
そのときは、まさかその後自分が東大の医学部に来て医療倫理学分野に就職するなんて
思っていなかったので、自分は哲学を研究すると思っていました。当時の京都大学は応
用倫理学が盛んでした。千葉大の資料集にも文章を書かせてもらったりしていました。
生命倫理というと私の上の世代になりますと、95年の東海大病院の安楽死事件(の判決)、
97年の臓器移植法、こういった問題から生命倫理に入った人も多いと思います。もちろ
ん、私も生まれてはいたのですが、同時代ではなく、そのためにむしろ脳死の問題とい
うのがせっぱ詰まった問題という風に考えてこなかったところがあると思います。もち
ろん、脳死についていくつか書いてはいるのですが。むしろ臓器移植法ができたのにな
ぜこれほどドナー数が不足しているのか、なぜ移植という医療が上手くいっていないの
か、に関心がありました。そうこうしていると、たとえば臓器売買というのが国外でも
行われていますが、臓器売買をもっとちゃんと制度化すべきではないか、という人がい
るんですね。国内外でも立派なジャーナルにそうすべきであると書いている人もいます。
しかし、むしろそれよりも、この部分は私の功利主義と関係してくるかもしれませんが、
功利主義者と言われているジョン・ハリスは、そうではなく、死んだ後の臓器提供とい
うのを義務化すべきだという話をしています。実際、現実的には、臓器売買も義務化も
非現実的で、実際はすぐにはそういうことにはならないと思いますが、こういった理論
的な問題、特にわれわれの同意、臓器を提供する際の同意のあり方や公正な配分の仕方
といった、脳死の話よりも、制度論に関心がありました。たとえば、現在の法律は改正
されて、実際に事例がありますが、親族への、家族への優先提供が正当化できるのか、
あるいは、若者に優先的に臓器を提供することが認めることができるのか、こういった
ことに関心があります。
こういった外在的な話とは別に理論内在的な話をしますと、自分が関心をもっていた「
功利主義」と生命倫理というのには非常に深いつながりがあると思います。たとえば、
私の先生である加藤(尚武)先生も、功利主義者のジョン・スチュアート・ミルという人
の、他者危害原則をベースに自由主義的、リベラルな議論をしており、それに強く影響
を受けました。また英米には特にピーター・シンガーという人がいるのですが、この人
を中心にたとえば、人工妊娠中絶や安楽死などについて過激な意見を、特に功利主義の
立場から主張しており、関心を持っていました。といっても、真面目に勉強していたか
分からないのですが(笑)。たとえば、私が院生の頃に、ピーター・シンガーやマイケ
ル・トゥーリーが京都にきたことがあったのですが、それほどありがたいと思っていた
かどうか記憶になく、今から思うと非常にもったいない話だと思います。
生命倫理というのは、功利主義とか義務論といった、倫理学理論、これは昔から倫理学
教室で勉強していることだと思うのですが、こういった倫理学理論が、現実的な重要性
というか、実践的な意義をもつ領域なんじゃないかと思います。なぜそうかと考えると
医療とかライフサイエンスの分野というのは、どんどん新しい技術が生まれてきて、そ
れに伴って、新しい倫理的な問題が出てくる。新しいことができるようになると、その
新しいこと、たとえば、iPS細胞で生殖細胞、精子や卵子を作ることができるようになる
と、それらを受精させることもできるようになる。そうすると、私の皮膚の細胞から精
子と卵子を作ってそれを受精させて、どなたかに代理出産してもらって子どもをつくる
という選択も可能になってきます。それを「できるからといってやってよいのか」とい
うことを考えなくてはいけない。非常に生命倫理というのは面白い領域なのではと思い
ます。クローン人間の話や代理出産の話、そういった問題や、デザイナーベビー、男女
の生みわけといった話は、色々な特性を持った子どもをつくっていくというのは現実的
になるかもしれない。それをやってよいかどうか。それを考える。多くの人は、「そん
なことはやってはいけない。いままでなかったことはやるのはよくなくて、特に不自然
なことはやってはいけない」と言います。おそらく、そういうところもあるのですが、
むしろ、積極的にしなくてはいけないことが出てくる可能性もあります。そのとき、人
々の社会一般の倫理的判断をちゃんと評価しないといけないと思います。「なんでもダ
メだ」というのもいけませんし、「なんでもどんどんやってもよい、自由だ」というの
もいけないと思います。それをちゃんと評価するというのが倫理学の役割だと思います。
そのような色々な素材があるというのが生命倫理なのではないかと思っています。

田中
たぶん高校生だと難しいと思うと思うのですが、倫理学の理論と現実の問題との解決と
の関係がちゃんと一対一対応しているのか、というのを疑問に思うと思います。たとえ
ば、功利主義という倫理学上の理論があって、その理論を採用すると、誰でも一つの現
実的な問題の解がでるというわけではないと思うのですが、同じ理論なり同じ主義なり
を共有している人たちにとっても、出てくる結果は変わってくるのでしょうか?

 

インタビューをまとめた記事は哲楽第3号でお読み頂けます。
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