今城力夫さんは、元報道写真家で哲楽を1号からご愛読頂いている一人だ。1939年に台湾で生まれ、終戦時は6才だった。中学生になった頃、父の薦めで自宅にあったドイツ製のカメラで写真を撮るようになり、現像液を自ら調合しながらモノクロ現像の魅力にはまった。当時は一枚の写真を仕上げるため、現像や水洗いに一時間程度を要した。
その後、千葉大学写真学科に進学。カメラの機構学や、フィルムや現像液の化学を学んだ。写真の化学に特化した千葉大で撮影をしたのは、たった一度だけだった。当時ひとつだけ選択することができた哲学の授業では、『形而上学の本性』という教科書を使って学んだ。もともと幾何学好きだったので、形而上学も難しくは感じなかった。
卒業後の1961年、アメリカ資本の報道機関である、UPI通信東京支局に就職。カメラや写真材料の製造会社に進む同級生が多いなか、今城青年は写真記者になった。学生時代に日米安全保障条約の反対デモに参加したことがあり、反戦の思いから、戦争の現実をいつかこの目で見てやりたいと考えていた。
1967年、ジャクリーヌ・ケネディのカンボジア訪問に同行取材した後、当時まだ終わりの見えない戦いが続いていたベトナムのサイゴンに入った。その日付は11月13日。今でもはっきり思い出せる日付だ。
危険が高い戦地の取材には、会社の命令ではなく、記者が自ら志願して会社が許可してから始めて戦地入りすることができた。同僚には、沢田教一、峯弘道、酒井淑夫、赤塚俊介らがいた。言葉の壁がある日本人記者を従軍記者として米軍が面倒を見ることに、ニューヨーク(アメリカ)本社は難色を示した。結果的に沢田教一と酒井淑夫はピュリッツァー賞を受賞。今城記者の写真も世界中の報道機関で使われた。
ただ、アメリカ政府やアメリカ軍に都合が悪い写真も世に多く出ることになった。目の前で起こっている事実を伝えたいと今城記者が撮った数千の写真の中には、米軍によるベトナム人捕虜の拷問写真も含まれ、後にそれらの写真がアメリカ政府への批判につながったのだ。
このベトナム戦争を境に、アメリカ政府は戦争報道を大きく規制するようになった。湾岸戦争の従軍記者には体力測定を課し、イラク戦争では米軍によって最初から最後まで囲い込まれ、不利になる情報を出すことを禁じたのだ。これが「エンベット」と呼ばれる戦争の報道規制のやり方だ。
ベトナム戦争後にアメリカ軍が地上戦に入ることは少なくなり、最先端の軍備による空爆が主力となったことも重なり、戦争写真の質は大きく変わった。湾岸戦争やそれに続くイラク戦争では、破壊された普通の人々の日常が見えにくくなった。
そして、戦争は今、この瞬間も、世界のどこかで続いている。私達がその事実を知らないうちに。
当時ベトナム戦争を取材した報道写真家の中で、ご健在なのは今城力夫さんただ一人。74歳になられた今城さんは、記者の報道姿勢のあり方を「報道倫理の問題」として、これからまとめようとしている。
目の前で起こっている事実をどう伝えるべきなのか、考え続けた今城記者の矜持が表れている論文の一節を最後に引用したい。
ニュースとして決定的瞬間を捉えた素晴らしい写真であっても、時として「写真を撮る余裕があったのなら、なぜ人命救助をしなかったのか」と問われることがある。1994年度のピュリツァー賞を受賞したケビン・カーター氏の「ハゲワシと少女」もその一枚だ。ハゲワシが飢餓のために力なくしゃがみ込む少女を後方から狙っている写真だ。この写真は新聞掲載後、写真を撮るのか、少女の命を救うべきかで大きな議論を呼んだ。(中略)フォト・ジャーナリストも余裕があれば人命救助に手を貸すべきだし、そうしている人も多い。カーター氏も写真を撮って後にハゲワシを追い払い、少女に手を貸したそうだ。私は「ジャーナリズムが結論を出したり、それを押しつけてはならない」と考えているが、公衆の判断材料となる情報を伝えることがジャーナリズムの役割だと認識している。だからフォト・ジャーナリストは「まず写真を撮ることを優先すべき」と思う。(3)
参考文献
(1)『サイゴンハートブレーク・ホテル:日本人記者たちのベトナム戦争』、平敷安常、講談社、2010年
(2)「イラク戦争報道・始末:仕組まれた報道と従軍記者」、今城力夫、総合ジャーナリズム研究、No.185、2003年、東京社
(3)「報道が信頼を失う時」、今城力夫、国際交流、第22巻4号、2000年、国際交流基金
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