音楽の哲学について考える

2010年9月23日

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木下 頌子(きのした・しょうこ)
1986年長野生まれ。5歳からピアノを始める。桐朋学園大学ピアノ科卒。現在、慶應義塾大学文学研究科修士課程在籍中。都内でピアノ講師をしながら、分析哲学と美学を学ぶ。

cover_digitalbook_1-07学部は音楽大学でピアノを専攻していたが、昨年の春から哲学科の大学院に入った。哲学科に転向したのは、ピアノを弾くために音楽とはなにかを根本から考えたかったからというわけではない。確かに音楽が何であるのか当時も今もわかっていないのだけれども、音楽とは何か、ということが言葉でわかったからといって音楽活動がうまくいくわけではない気がする。ただ、日頃行っている実践を言葉で説明してみることもそれはそれでおもしろい。

例えば、音楽作品とはなんだろうか?

日常的に私たちは「僕はマーラーの〈巨人〉が好きでね」とか「あなたって〈水の戯れ〉のような人だわ」などと言う。

しかし、ここで曲名によって言及されている音楽作品という対象が一体何であるのか実はそれほど明らかではない。絵画において作品「モナリザ」はこのモナリザの絵そのものであるし、彫刻において「考える人」はこのブロンズ像そのもの、つまり物体である。けれども音楽の場合、作品〈巨人〉は何であるのか。物体ではなさそうである。〈巨人〉の演奏そのものだろうか。一体どの演奏?今まで演奏されたすべての〈巨人〉の演奏か?しかしマーラーが作曲してから10年間〈巨人〉が演奏されていなかったとしたら、その間作品は存在していなかったことになるのだろうか?そんなはずはない。では、マーラーが書いた自筆譜を作品と考えてみたらどうだろう。作曲者が実際自分の手で作ったのはその楽譜なのだから、それを作品〈巨人〉とみなすのは良いかもしれない。だが、仮にその自筆譜が焼失してしまったら〈巨人〉は存在しなくなってしまうのだろうか?これも何かおかしい。やはり音楽作品を物理的な事物とみなすことには無理があるようである。

実は、現在多くの哲学者は音楽作品を抽象的な対象だと考えている。抽象的対象というのは時間・空間的な位置をもたないような存在で、文字や数などもこれに当てはまる。従って、小説や詩のような文学作品もそのあり方は音楽作品に似ていると言えるだろう。

しかし鑑賞という観点から考えてみると、文学作品と音楽作品はずいぶん異なった特徴をもっている。私たちは文学作品を鑑賞するときには、本や雑誌の紙面という具体的な事物を通じて抽象的な作品を認識して楽しんでいる。

このとき、物理的な紙面の材質やインクで印刷された文字のフォントや大きさは作品の鑑賞にとってほとんど無関係な要素である(紙質にこだわった詩集などもあるだろうが例外である)。

つまり、鑑賞の対象となるのはあくまで抽象的な対象としての作品である。

けれども音楽鑑賞の場合、私たちは単なる純粋に抽象的な音の構造を認識することを楽しんでいるとは言えないように思われる。私たちが楽しんでいるのはむしろその抽象的な対象を認識させる手段となっている物理的な音響そのものではないか。そして私たちが作品に与える評価は抽象的な構造に対してではなく、実際に鳴らされる音響の効果に対して成されているのではないだろうか。

知っているはずの曲をいろいろな演奏で聴いたとき「こんなにいい曲だったっけ」とか「あれ、こんなつまらない曲のはずじゃないのになあ」と思うことがある。それはある作品が魅力的なものであるかどうかの判断が演奏のされ方に大部分依存するからである。

というわけで、これまでのところ音楽作品と呼ばれる対象は結局何であるのかはっきりしていない。けれどもそろそろ紙面も尽きたので(力も尽きたので)ここで終わりにしたいと思う。こうした問題は「音楽の哲学」という分野で盛んに議論されている。この文章を読んで音楽の哲学ってちっともおもしろくないじゃんという印象をもたれた方もいるだろうが、それは筆者の伝え方が悪いのであって、音楽の哲学のせいではない。もっと魅力的に哲学を展開してくれる人もいるのである。残念な演奏会だったと思って野次でも飛ばしていただきたい。

 

木下頌子さんの記事を含む「特集:若者よ哲学を抱け」は哲楽1号でお読み頂けます。

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