永井均と風間コレヒコ、東京山谷に集う

2014年10月6日

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編集人・田中さをり
高校生からの哲学雑誌『哲楽』編集人。現在、都内の大学で広報職員を務めながら、哲学者へのインタビューを続けている。




台風が近づく薄曇りの土曜日、永井均と、東京山谷に住む風間コレヒコを尋ねた。「山谷(さんや)」という地名は、住居表示制度により、1996年以降の地図上には存在しない。日雇い労働者のための安宿が多く立ち並ぶドヤ街を指す地名として、その呼び名だけが残っている。IMG_kazama-2-bw

風間コレヒコは、永井均が千葉大で教鞭を取っていたときの教え子で、現在は、週3日を重度障害者の自宅介助員として働き、残りの4日はミュージシャンとして活動している。ちなみに、永井均も、週3日を日本大学の哲学教授として働き、残りは、作家やカラオケ歌手として活動している。さらにちなみにだが、著者の私は、週の3日を大学の日雇い広報として働き、残りは、哲楽編集人として活動している。

つまり、私たち三人の共通性は、週に3日だけ労働して、残りは好きに生きているという点にある。ドヤ街の路上で昼間から酒を飲み、花札に興じて、昼寝をしている日雇いのおじさんたちの姿に、どこか惹かれるものがあるのも否定できない。「仕事も家族も捨てて山谷に沈みたい」と書いたエドワード・ファウラーの気持ちもわかる気がする。

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風間コレヒコの自宅は、LPレコードと哲学書が並ぶ、家賃3万円の城だ。「永井の歌声」を手渡すと、風間はすぐに中の豆を真鍮の茶筒に移し替え、鉄瓶で湯を沸かし、ペーパーフィルターでコーヒーを落とした。風間の家にある備品のほとんどが、近所の「どろぼう市」と呼ばれるがらくた市で手に入れたか、拾ってきたものだという。あまりの居心地の良さに「相当困ったらここにきても良い?」と尋ねると、「山谷に夜逃げですか」と風間は笑う。

風間の淹れたコーヒーをすすると、私たちは「哲楽ライブ」のための打ち合わせを始めた。歌と朗読を骨子とするこのライブ、最初にギャラの話をすると、二人とも異口同音に「金はいらないよ」とキッパリ。どうやら、このライブ出演を快諾した二人の間には、お金以上のつながりがあるようだ。

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「本当は歌手より俳優がやりたいんだ」、「永井家の犬は真面目だ」、「詩と歌は違うから「死にたい」という歌詞を直接的に歌ってもいいんだ」、「困ったら紀々さんにピアノを長く弾いてもらおう」……。脇道に逸れては本題に戻るのを繰り返すこと2時間、ようやく当日の流れが決まった。

夕方4時過ぎに外に出ると、まだ明るい。そういえば、昼食がまだだった。私たちは、昭和初期から続いているような大衆居酒屋に入った。黒く艶のあるテーブル、鉄の格子、軒先にぶら下がった虫取り紙、麒麟の黒ラベル。今朝電車で一時間かけてきた場所にいるはずなのに、まるで遠い昔の異国にいるようで、何度時計を見ても、今が何時なのか、ここがどこなのか認識できなくなっていた。グラス一杯のビールを飲み干すころには、完全にこの街に飲み込まれていた。

風間は唐突に、「詩の表現には言語哲学の分析が届かないところがあるのではないか」と言った。「茶色い戦争と言って、何が伝わっているのか」と。

この日、山谷に集まった三人が過ごした時間や場所について、実体があるものだけを取り出して、名指しして、どんな「集い」だったのかを記述することは可能だ。しかし、後にも先にも進まない、ただお互いにお互いを形容し合っているような、私たちは何かの断片なのではないかという気分には、「まるで…」と言葉を尽くしても届かないものがある。

この続きは、11月23日、沖縄から哲楽家の紀々さんを迎えて、哲楽ライブという形容を試みたい。

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■ 哲楽ラジオ・インタビュー録
なぜ子ども時代の問いを持ち続けられたのか:哲学者永井均氏に聴く
実は私哲学徒でした:沖縄の哲楽家紀々さんに聴く