2015年11月29日に、千葉市にある古書店MOONLIGHT BOOKSTOREで、7回目になる西千葉哲学カフェが開かれました。今回のテーマは「承認されたい私」。今回は若い学生の方が多く集まってくださいました。
今回の哲学カフェで非常に印象的だったのは、「承認」という言葉のイメージが世代によって大きく異なっていた、ということです。若い学生の方々は、「承認」を友達関係のなかで互いを認め合うことだと考えていました。たとえば、フェイスブックなどのソーシャル・ネットワーキング・サービスで、友達の投稿に「いいね」ボタンを押すことが、その友達を「承認する」ことである、といった具合です。これに対して年配の社会人の方々は、どちらかといえば組織のなかの事務的な営みとして「承認」という言葉を捉えていました。そうした例として挙げられるのは、ある書類を会社に提出した際、その書類が受理されたことを示すために「承認」と押印される、という場面でしょう。「承認」という言葉はそもそも非常に抽象的な概念です。そのため、この言葉は様々な場面で応用されうるのかも知れません。
とはいえ、「承認」という言葉で表現される事柄に共通するのは、ある共同体のなかにメンバーとして迎え入れられ、そこで役割を与えられ、なんらかの機能を演じる、ということです。そのように考えると、たとえば昨今の若者がいうような意味での「承認」されないことの苦しみは、友達という共同体のなかに迎え入れられていないことの苦しみである、と言い換えることができるかも知れません。また、単に共同体に迎えいれられているだけでなく、その事実を強く確信させるものが必要である、という意見も挙げられました。たとえ友達が沢山いても、そこに共同体として感じられる強い繋がりがなければ、自分が承認されているという実感は希薄になるのかも知れません。
そのように考えると、私たちにとってもっとも大きな承認の母体は国家なのではないか、という指摘がなされました。その意見を出された方は続けて、しかし、今日の日本人は、自分が国家という共同体に属するメンバーであるという実感を得ていないのではないか、と話されました。その背後にあるのは、グローバル化に伴う文化の多様化があるのかも知れません。今日では、ある程度の発展を遂げた国では、スターバックスや、マクドナルド、ケンタッキーフライドチキンなど、どこに行っても同じような外資系ブランドの店を見かけます。そうした状況で自分が属している国家の独自性を実感することは難しいのかも知れません。
同様の問題は、もっと小さな単位の共同体、たとえば地方都市にも当てはまります。地方都市に大きなショッピングセンターが建ち、商店街が閉鎖されていき、結果的に地方の土着的なコミュニティが解体しつつある、ということは、しばしば今日の重要な社会問題として指摘されていることでもあります。この問題の本質は、ショッピングセンターという「どこにでもある」場所が人々の生活の中心になっていくことで、かえって自分がどこに帰属しているのかを曖昧にさせて、「誰にも承認されていないという気分」を催させる、という点にあるのかも知れません。
では、承認の問題を解決するにはどうしたらいいのでしょうか。それに対して出された答えは大きく分けて二つありました。一つは、やはり誰かから承認されること、あるいは自分がある共同体の一員であるということを強く意識することです。たとえばそれは、国民としてのアイデンティティを醸成することや、あるいは地方にコミュニティを作り出すことによって果たされるのかも知れません。そしてもう一つの解決策として指摘されたのは、自分が自分を承認することです。言い換えるなら、自分にはある一定の役割があり、一定の価値があるということを、他者の手を借りずに確信することに他なりません。
もっとも、自分で自分を承認する、ということは、それだけでは曖昧としています。そもそも承認とは、ある共同体がある個人を成員として認めることであったはずです。そうだとしたら、承認は常に他者との関係のなかで起こるものであって、自分一人のなかでは起こらないのではないか、という反論も寄せられそうです。この点についてはなお検討する余地がありそうですが、残念ながら今回はここでタイムアップになってしまいました。しかし、ここに承認の問題を解決するための大きなヒントがあるのかも知れません。