私は今、学術広報の仕事に従事している。手話という言語に初めて触れたのは、高校3年生の夏だった。聾学校の先生という仕事を体験したいと思いたち、地元鹿児島の聾学校を訪れ、手話と初めて出会った。私のすぐ上の兄は難聴の障害があって、幼い頃は家族だけに通じるホームサインで会話をしていた。成長するにつれて、兄との会話は徐々に音声言語に移行したものの、聞こえない人がいる家庭に育った自分なら、将来的に聾学校で働くことができるかもしれないと思ったのだ。
しかしこの予想は見事に外れ、高校生の私には聾学校で使われている手話がまったく読み取れなかった。私が家で使っていたサインは、いわゆる模倣的な身振りで、動作や人の感情をわかりやすく単語化した合図であり、構造化された手話とは違っていたのだ。意味が読み取れそうで読み取れない細かな指先の動き、顔の表情、体や口の動きが一体化して連続的に産出される複雑な記号のように見えた。
私が訪れた聾学校には幼稚部から専攻科まであったのだが、低学年の子どもたちの使う手話でも、私には一単語も読み取ることができなかった。かろうじで、時々動く口の形から、何を言っているかを推測できたくらいだった[1]。そんな手話初心者の状態で大学に進学して、地元の手話通訳養成講座で本格的に手話を学び始め、夏休みには聾学校の寄宿舎で生活支援ボランティアとして入り込み、4年間でなんとか基本的な手話での会話ができるようになった。
ところが、それから大学院で専門にした哲学分野で、また別の衝撃を受けることになる。当時私が所属していた哲学講座では、手話ができる人はおろか、手話の言語的特徴について話が通じる人がいなかったのだ。現代の哲学分野では、人間の認識の問題から、言語の問題に主要な関心がシフトしてきているというのに、そもそも手話は考察の対象になっていないようなのだ。異なるモードで考えられたら、疑似問題の検証に役立ちそうなものなのに。
この二度の衝撃は大きかった。「ホームサインを使っていたのに手話を読み取れなかったこと」と、「哲学分野で手話について話が通じる人がいなかったこと」。これは、身振り・手話・音声・文字というモードに、連続性と非連続性があることを示しているのかもしれない。
興味深いことに、哲学分野で使われる音声言語と、日常会話的な手話では、構造がかなり異なる。一つの違いとして、哲学の議論を音声で聞いていても、位置関係が見えにくいことがあげられる。例えば私自身は、誰かに過去の出来事を音声で伝えるときでも、声真似を交えてその場の様子が見えるように話す傾向がある。文章で書くときでも、その場の様子を記憶した映像をなぞるように文章化する。手話を使っているときはこうした特徴がより顕著になる。一方で、哲学分野では、ピッチの高低差があまりない単調な音声で高速で発声する人が多くて、これは慣れるまでかなり時間がかかった。
発表やゼミでは、書かれた原稿を読み上げたり、哲学書のテキストを引用したりしながら議論が進む。板書で図表を書いたりすることもあるものの、単語や物同士の位置関係はあまり重要視されず、空間が言語の文法に入り込みにくい議論のスタイルのように思えた。空間を文法化して、手や視線などの身体のいろいろな場所を同時に使う手話とは違って、哲学の議論は、時間軸上を細く流れる渓流のようだった。
こうした違いが生む固有の哲学問題もありそうである。私自身が情報科学分野で手話の韻律情報の研究に従事した経験から考えても、身振り・手話・音声・文字というモードの連続性や非連続性は、これまでの哲学の議論そのものを相対化する力をもつのではないかと思う。
こんなわけで、「手話の哲学」という研究分野は私の知る限り存在しない。これまで歴史に名を残した全ての哲学者は音声言語話者であったから、仕方がないのかもしれない。しかし、手話について論じている哲学者は過去に確かに存在していたし、手話の視点で再検討されるべき問題もあるように思う。
この連載では、手話を生活言語としている人々に哲学の議論にもっと加わってもらえるように、また、音声を生活言語としている人々がこれまでの哲学の音声言語的特徴を自覚できるように、その下敷きとなる話題を整理していく。
手話も哲学も、関心はあるけど専門的に考えたことがない人にも読んでもらいたいので、様々な学問分野の知見を寄り道しながら進むことになる。「手話の哲学」を始めるのに役立ちそうな本も紹介していきたい。ぜひ手を動かしながら、一緒に考えてみてほしい。