私はある人の死に際し、「あの人はもう存在しない。ではあの人は一体どこにいて、なぜあの人はいないのか」、「私が私に対して死を差し向けた瞬間に、全ては崩れ落ちてしまった」といった内容の言葉を、その人の死後3年が経過した1年前の冬、携帯のメモに残した。この言葉を伴走者として、2020年8月、筑摩書房より出版された入不二基義著『現実性の問題』について検討したい。
本書は初発の現実Pを可能的「現実」へ豊穣化させた後、潜在的「現実」へと転回させ、再び始発点へと回帰させるという円環モデルに基づく「回る現実」としての現実の水準で捉える。さらにそれらに対して、「回す力」という現実の水準である現実性という力が考えられている。これは、旧来の意味論、認識論、存在論とは区別され、それらを超え貫くものとしての現実論を提唱し、導出された新次元の存在論/意味論/認識論である。現実性とは「現に」という副詞が指す、事象化せず自然の内側に、あるいは自然全体に遍在的かつ無関係的に働く潜在的な力のことである。
本書の特徴は、必然/偶然、時間、私、存在/無といった古典的哲学問題からクオリア問題までを、過去の論争や著作に現実性と円環モデルを引き合いに出しながら加筆、修正或いは援用することで捉え直していることであるが、まずはその中で第9章「「無いのではなくて存在する」ではなく」に注目する。本章では「ある」と「ない」について、それを「追跡する」という形で論じている。
著者は、「ある」について言語的媒介を拒否する。言語は排中律による差異化を導き、否定なき絶対的肯定とはなりえないからである。著者はこの絶対的な肯定について、存在論的無尽蔵としてのマイナス内包という潜在性の場と、現実性の力を挙げ、前者に残る概念化の可能性を考慮し、最終的に「ある」の極地は「無内包の現実」、すなわち現実性という力であると論ずる。一方、「ない」について著者は可能世界自体を拒否する。その例として「未生の無」を提示し、それは「「無として認識されることさえない無」でさえない無」であり、その「遡及的に働く自己抹消の極地」が「ない」の極地であると論ずる。またその一方で、可能世界における無としては、「この現実の外部のなさ」を挙げている。
しかし、この「ない」の極地は「ある」の極地と交わるものではない。つまり、「ある」と「ない」は、排中律によって並列されるものではない。しかし、この「ない」の極地自体も、「現に」という「ある」のなかで働く。すなわち、本文に則れば、「存在と無は端的に無関係でありながら、「ない」かつ「ある」という単一体である」と表現できるだろう。
私は、この「ある」と「ない」の追跡によって、我々は人間の生と死を捉え直すことができるのではないかと考える。つまり、初めの言葉は、現実性の問題を考えることによってどのように解釈できるのか。私は次のように述べたい。
我々は可能世界の前提の上で認識論的ではなくて存在論的に「ある」ことで一方向の時間性に基づいて生きている。村上春樹は「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と述べているが(『ノルウェイの森』、講談社文庫上巻、 54頁)、この一節は私には「死は生の対極としてではなく、生が可能も必然もない無様相で汎的な現実性に貫かれることによって、その一部として存在している」と解釈されうるように思える。その一方で、あの人が存在しない「ほんとうの無」、私が私に対して死を差し向けた瞬間に全てが崩れ落ちる「外部の無」は、我々の生という肯定に対する否定として生じる問題であり、それは可能性の相に置かれた無である。
また、「あの人がどこかにいる」ことも、顕在し得ない最深潜在性としての「あの人」が「ある」とは無関係でありながら、0から1へのギャップとして「私」や「この今」という特異点において瞬間的に現れる、「ない」の極地に現れる現実性によって存在論的に保証され、「何らかの感じ」というクオリアの潜在態として、我々に接触しようとしている。すなわち現実性とはこの接触点において希望となるのだ。そしてその瞬間に現実性は時間を瞬間的ベタへと導き、端的な無関係性として完全に姿を消すのである。
かつて、世界を世界という様態で私が認識したとき、そこには何かが取り残されたまま漂っていた。それは捉えどころがなく、あらゆるものを貫き通しているのは確かなのにうまく言葉にできない、何とも言えないその感じとして私の中にあり続けている。それを本書は新たに現実性の力を想定することによって、私の抱えていたそれをありありと解き明かしてみせた。
私はひとりの表現者としてこの「あらゆるものを貫き通している何かわからない」ものと付き合ってきた。そんな私にとって本書はある種の絶望でもあった。原理的に「それ」はそこに現れた時点でもう「それ」からは強く突き離されてしまい、どれだけ私が制作をしても、「それ」を現前させることはできないと、言われてしまったのだから。しかし私は今、「あの人」の存在にとって現実性が希望であるということと同様に、やはり現実性は作品という存在形態にとっても希望であると、捉えなおすことができると考えている。
つまり、私たちの認識において絵画という存在形態が果たす役割というのは、痕跡の集積体としての作品に宿るその端的な在り方によって「それ」に鑑賞者を晒そうとすること、そこにあるのではないかと思えるのだ。「それ」すなわち現実性への入り口として、あるいは実在性にあいた一種の裂け目として作品という在り方を考えることができるのではないだろうか。確証があるわけではない。痕跡というものと現実性がどのように結びつくかを論理的に示すことは今の私にはできない。しかし、表象の上に意味が乗っているかどうかという以前の状態として、痕跡によって形作られていく作品という在り方そのものに、「それ」に近づくための、或いは現実性が芽をだすための「特異点」があるのではないかと、私は本書を読み確信しているし、そのように考えることによって再び現実性を希望として捉えなおすことができている。そしてこれから、現代美術という枠組みが存立する様々な空間において、現代美術に何が“可能なのか”をゆっくり探ってゆくその一つの指針として、本書を位置付けたいと思っている。
本書はこのようにして我々を取り巻く事物、事象をまるごと包み込む形で現実性について論じ、既存の意味論・認識論・存在論を「足りない」とした。そして現実性という概念によってそれらを新たなフェーズへと昇華させていっている。本書は現実論的存在論、或は形而上学的現実論と表現できるだろう。語りえぬものにおいて語っておきながら、何とも釣り合わない無様相な絶対性として現実性を提示することで、我々に沈黙を強いて塗り潰す、最後の一様な光でもあるのだから。