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(インタビュー◎2021年10月4日テレビ会議にて Music: Korehiko Kazama)
入不二基義さんは、青山学院大学で哲学を教えている。自身の思考は日々、ワープロソフトから描画ソフトまで様々なアプリケーションを駆使して記録する。論文執筆時には、集中して、一挙に書き上げる。そうして蓄積された入不二哲学は、複数の概念の動きを捉え、それらが現れたり潜んだり、伸びたり縮んだり、時には螺旋状に流れたりする様子を活写し、独特な言葉遣いで読者の思考を照らす。
入不二さんは、11月11日という誕生日と、神奈川県立湘南高等学校出身であることに誇りをもっている。そもそも書く、という習慣がいつ始まったのか、その記憶を辿ると、幼稚園時代にまで遡る。小さな黒い能率手帳を持ち歩き、近所を探検して、お化けについて記録していたという。概念が動く形で現れ始めたのは、中学時代。数学の授業で習った2進法で、0と1だけで構成される数字の中に、2そのものがどこにも見出せないという衝撃を覚え、頭の中に視覚的なイメージが浮かんだ。これを「2進法の亀裂」だと感じたという。
そういえば、入不二さんの誕生日の1111は、2進法から10進法に書き換えると15になる。誕生日に暗号が隠されているようでもある。高校は神奈川県でも有数の進学校。試験前には、普段感じる疑問を全て封じて勉強に打ち込む一方、文芸部の活動で小説を執筆し、小さな疑問の断片が書き留められた。
幼少期に入不二少年が見ていたお化けは、幻覚なのか、空想なのか、それとも実在する何者なのか、それはわからない。ただ、お化けたちは「現に」そのような在り方で存在していた。哲学者になった入不二さんが書き下ろした『現実性の問題』という一冊の本があるが、お化けたちの在り方は、この本で描かれる現実の力ともどこかで通じているようでもある。
『現実性の問題』は、一年程前に刊行され、歴史に残ることを予期させる哲学書として話題になった。ただし、読解は容易ではない。現実の存在という形而上学を扱う哲学書であり、書かれてあることの先に詩や文学との接合を想像させる芸術的な書でもある。その一方で、読み手が正確に理解しようと読み込むうちに、不思議な魅力に取り憑かれる。入不二さんの著作の愛読者たちは、この魅力をエッシャーの騙し絵に喩えたり、精神的な力として感じたりもしている。
さて、入不二さんとのインタビューが終わって、音声を編集しようとしたところ、声と声の間の無音であるはずの区間に、微かな背景音が残されていた。入不二さんの自宅近くの学校では、運動会の予行演習が開催されていて、遠くで響く「今、最後の追い上げです」という放送部の実況のようだった。ここ数年来、私たちの日常は、季節感も時間感覚もぼんやりしたままだ。そんな中でも地球は回って、季節はめぐっている。
秋空を見上げれば、高く見える。地球に接近する隕石の軌道は、天文学者が観測してくれている。そして哲学者入不二は、人間の概念の動きを見つめて、哲学している。こうして、私たちの暮らしと自由は安全に保たれ、また明日からの生活を前に、安心して眠ることができるのだ。
※音声の書き起こしを読みやすくするため、加筆修正をしております。
田中:改めまして田中です。本日はビッグ・ゲストです。入不二基義先生に来て頂いております。よろしくお願い致します。
入不二:よろしくお願いします。
田中:お時間頂いて本当にありがとうございます。
入不二:こちらこそ、よろしくお願いします。
田中:入不二先生は色々な書籍をお出しになっていらっしゃるのでご存知の方は多いと思うのですが、最初にご経歴を簡単にご紹介させて頂きます。
1958年11月11日、神奈川県のお生まれです。東京大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得満期退学された後、山口大学助教授を経て、現在、青山学院大学教育人間科学部心理学科教授をされていらっしゃいます。主に「私」論・相対主義論・時間論・運命論等を題材に哲学をしていらっしゃいます。珍しい趣味としては、51歳でレスリングを始められて、一年後の52歳で試合デビューも果たしておられます。2020年に筑摩書房より『現実性の問題』という哲学書を上梓されていらっしゃいます。
まず、11月11日生まれということの大事なポイントですね。ここを外さないで下さいと言われて、今、緊張しながら読み上げました。11月11日生まれというのは何かポイントがあるのでしょうか。
入不二:見たまんまなんですけど、1111ですから、ゾロ目になっていて。誕生日って自分のものすごく小さい頃からついて回っていて、自己紹介も含めて。1の並びだっていうのをすごく意識して育ってきたので。蠍座好きですし、しかも蠍座の中でも1のゾロ目だっていうので、何か自分の出自がそこにあるかのような幻想を小さい頃からもっている。それがこだわりということです。
田中:省かれると「入れて欲しい」と仰ると(笑)。
入不二:「入れて欲しい」つながりですが、11月11日への拘りは、幼児の頃からということですけど、普通プロフィールでは出身大学を書くことになっていて、出身高校って字数のこともあって、省略することも多いですよね。でも、この歳になると卒業した大学より高校の方に愛着が出てくるんですよ。遡って、中学校とか小学校も含めて。大学どこどこ卒よりも、高校を入れておきたい、みたいな。私、神奈川県の湘南高校というところの卒業なのですけど、まあ、歳を取ったせいだと思うのですけどね。高校以前にプロフィール的な意識が向かうっていうのは。
田中:私は九州出身ですけど、神奈川県と東京都は近い感じがあって、住んでいる人はどちらにも愛着があって、神奈川県をフォーカスするのはあまり違いがないように思ってしまったのですが、そこは全然違うのですね。
入不二:高校の雰囲気という点では、全然違うでしょうね。神奈川県の県立高校で、藤沢の方にあるわけですけど、やっぱり田舎の高校なのですよ。東京都内の高校と比べれば。隣ではあっても、地方の公立高校という色彩が強いのだと思います。
田中:どんな高校だったのですか?
入不二:当時は、東大に70名ほど合格するくらいの進学校だったのですが、公立高校だということもあって、大学受験という縛りを忘れているような素振りをしているところがある。自分たちは勉強だけの優等生じゃないよ、と誇示したいかのような。運動だとか部活も十分やっているし、体育祭も物凄く時間をかけてやって、青春を謳歌していますと言いたげな高校でした。それってある種の自己欺瞞でもあるわけですが、優等生特有の微笑ましいものです。私は残念ながらその仲間に入れなかったのですが、でも高校生としては、そういう振りは健全なものだと思います。そういう、「文武両道」の高校でした。
田中:何か部活とかされていらっしゃったのですか?
入不二:私、文芸部の部長をやっていて。さっきのレスリングの紹介とは対極で、高校時代に運動部の経験は全くありませんし、体育祭などの盛り上がりにも冷淡でさぼってばかりいました。文芸部の部長としては、むしろそういう「文武両道」「勉強もスポーツも」という連中を睥睨(へいげい)して馬鹿にしているみたいな、そういう捻くれた態度をとっている高校生でした。そういう態度もまた、もう一つの自己欺瞞というか演技であって、「同じ穴の高校生」だったことになりますが。
田中:当時から哲学書なども読まれていたのですか?
入不二:いくつか読んでいましたけど、どっちかというと自分で小説書いていました。
田中:ああ、そうですか。
入不二:(哲学というよりは)文学畑のことをやっていましたね。
田中:小説というのは、S Fとか、どういうジャンルのものを書かれていたのですか?
入不二:「私小説」に分類されるようなものじゃないかな。
田中:えぇっ、今書かれている本のイメージからはちょっと想像がつかないです。
入不二:相当な距離があると思います(笑)
田中:ちょっと拝見してみたいです(笑)
入不二:それは、もうないことになっていますので……(笑)
田中:高校の頃のお話を伺って、話が広がってよかったです。愛校心があるということですね。その流れになるかはわからないのですが、入不二先生の書かれるものはどういうテーマの書籍であっても、何か立体的で動くようなイメージが背後にあるような印象がずっとありまして。
最新刊の『現実性の問題』の中では、特殊なメガネを自分がかけさせられているような意識が常にあって、そういうふうに感じた時には必ず本の隅っこに「入不二メガネ」って書きながら読んでいたのです。今3Dになっているよって、自分で意識的に読むようにしていたわけですね。
概念が動いて、概念同士がくっついたり離れたりという動きをテキストで想起させられるような哲学書って凄く珍しいと思って、読ませて頂いていました。概念の動性というものに注目されているとすればですが、それについてきっかけとなるお話をお聞かせいただきたいところです。
入不二:先ほど、高校時代に文芸部で小説などを書いていたって話をしたわけですけど、自分が文章をいつから書き始めたかを辿ってみると、結構古いのですよね。最初は幼稚園の時に、父親が使っていた能率手帳っていう小さな黒い手帳を自分も持っていて、そこに毎日メモ書きとかとかその日あったこととかを文章で、自分で毎日書いていたっていうのが、一番古いところの記憶ですね。
田中:ちょっと待ってください。能率手帳を幼稚園の時に持ち運んでいらしたのですか?
入不二:そういうことです。いつも持っていました。
田中:サラリーマンみたいですね(笑)
入不二:書く内容は全然サラリーマン的じゃないのに。別に予定ないですから。当時からお化けや幽霊が結構好きで、それに関することを手帳に書いていました。
田中:お化けが好き?
入不二:幼稚園の時ですね、それは。どこでお化けが出るか、そういうことをあちこち探索しながら、その手帳にメモ書きをしていって。ここに出るお化けはどういう種類のお化けかって自分で想像するわけです。
田中:今の数秒の中でも色々お聞きしたいことが出てきてしまったのですが……。お化けが見えていたのですね?
入不二:そうですね、結構見えていたっていう記憶が残っています。
田中:幻想というか、実際にありありと見えていたのですか?
入不二:見えていました。お化けや幽霊のことに関しては、もう少し大きくなったときに、何かに憑かれるという体験もあって、そういうことが体調不良を引き起こしたりしていました。原因が分からず、親にあちこち病院に連れて行かれたこともありました。霊的なものに感染しやすい体質みたいなものが、幼稚園の頃から思春期まではあった気がします。
田中:でも、後々ちょっと心配になってしまうような事態にもつながったわけですけど、幼稚園の時に見えていたものは記録の対象だったわけですよね。
入不二:そうですね。それは別に怖いとか嫌なものでは特になくて、ただ不思議な奴がいるぞというそんな感じを(もっていました)。私、当時団地に住んでいたんですけど、団地の敷地内も含めて、色々原野的な部分が残っている時代ですから。防空壕の跡なんかも結構残っているんですよ。そういうところを調査してメモするみたいな。
田中:お一人で色々歩き回って地図を作られていたのですか?
入不二:幼稚園の時は一人ですけど、小学校時代には「妖怪研究会」というのを自分で組織して、そういうのに興味ある奴を集めて。研究会やっていましたけど。
田中:(笑)小学何年生くらいですか?
入不二:それは3、4、5ぐらいの時。
田中:妖怪研究会の会長…。
入不二:会長ではなかったけど、発起人ではあったと思いますね。
田中:その頃から、物が動いて見えるというのがあったのですか?
入不二:変なものが見えるという体験よりも、それを書くのが習慣化していたことのほうが、重要な気がします。小学生時代には妖怪日記をつけていましたし、中学生の時にはガリ版刷りの同人誌に文章を書いていました(この頃は安部公房を愛読していました)。同人誌にはエッセイ的なものを書いていて、考えるときには頭の中に色々な図像を浮かべながら、視覚的に思考していたように思います。
今だったらパソコンのディスプレイで実現できると思うのですけど、その当時は自分の頭の中に考えるための空間みたいなのがあって、初めて聞いた言葉とか気になっている言葉をあちこちに配置して浮かべながら、それをくっつけたり離したり、動かすわけです。中学生の頃には、そういうことをやっていました。今書くものに概念の動性があるとすれば、その辺りとつながっているんじゃないかな。
田中:きっとそうだと思います。幼稚園の頃のお話を伺うと、自分には見えているものが他の人には存在していないということにされるのでしょうけれど、動き自体は自分では感知できていて。それを字で書かれていたわけですよね。図や絵じゃなくて。
入不二:図や絵もあったと思いますけど、メモ程度の図式みたいな。丸書いたり線書いたりというような。今でも結局同じことやっているような気にはなってきましたけど(笑)。そんなことを手帳やノートに書くのは好きでしたよね。
田中:そう思うとかなりのキャリアがありますね。
入不二:そうですね、書くということに関するキャリアは長い気がします。
田中:ご自身で考えたことと、外から浮かんできた、受け取る情報としてのイメージがちゃんとつながっていて、それを記録されていたというのが、入不二先生の書かれる文章や哲学の素といいますか、どこに遡るとそれが出てきていたのか、ということが、お話を伺って納得できました。生粋の概念動性を見る視力があったということかもしれないですね。
入不二:「概念」ということで思い出すのは、2進法を最初に習ったときの驚きです。当時の中学校のカリキュラムでは、2進法と10進法の話が数学の授業にあったと思うのですが、今はないらしいですね。
田中:ない…でしょうね。
入不二:2進法という概念を習った時に、ものすごく衝撃を受けた覚えがあります。なんで2進法に衝撃を受けたかというと、数学の授業としては、2進法と10進法の書き換えみたいな練習をするのですが、その「2進法」という名前を聞いた時にですね、「2進法」という名前は2進法の表現ではないということに衝撃を受けたんですよ。
どういうことかっていうと、2進法という名前はまさに「2」が入っているじゃないですか。だけど2進法の表現に「2」はないわけですよね。0と1だけで構成されるわけだから。2進法で全てのこと(数)を10進法と同じように表せる。コンピュータなんかまさにそうなわけです。
なのに、その2進法で表された「1と0の並び」の中には自らの名前「2」がない!というそんな感じです。もちろん当時、そう明確に言えたかどうかは別として、「2進法」という名前は自分の名前なのに、その「2」っていう名前は自らのシステムの中に登場しないわけじゃないですか。「2」という名前としては。
田中:そこが衝撃だったんですね。
入不二:「2進法」恐るべしと思いました。
田中:今、音声だけで聴いていらっしゃる方のために補足しますと、10進法というのは、0、1、2、3、4、5、6、7、8、9…と0から10に1ずつ上がっていくもので、2進法というのは0と1の組み合わせで表示される書き方、そういう数学の概念の一つということで、画像を表示をしながらご解説頂いたところです。
入不二: このときの衝撃も、概念への拘りにつながっていると思います。しかも、概念の正確さとか有用性ではなくて、概念の「穴」というか、「2進法の亀裂」みたいなところに引っかかっている。
田中:2進法の亀裂……。
入不二:全てを表せるのに自分の名前だけは表せないみたいな「亀裂」。そういう概念の「穴」的なあり方に興味があったのは、中学時代からそうだったなと思います。
田中:これも動いて見えるような感じがあったのですか?
入不二:私のイメージとしては、「0」と「1」で全て埋め尽くされている無限の平面があって、その平面上のどこにも書かれていない「2」という名前が、上の方に浮かんでいて、無限の平面を上から吊している。そんなイメージだったと思います。
田中:やはり、抽象度の高い概念でも、入不二先生なりの驚きを感じるポイントが動きのところにあるのかもしれないですよね。
入不二:抽象度が高くなるほうが、イメージの動きと繋がりやすくなるのかも。
田中:2が2進法のところについているけれど、2自体はどこにもないじゃないかという驚きですよね。
入不二:むずむずするような不思議な感じが残ったのを覚えています。
田中:そういうものとして教えられると、あまり疑問をもたずに「ああ、そうなんだ」と通り過ぎてしまう人も多いと思うのですけど、引っ掛かりがあって、それが今の哲学者になられた入不二先生の頭の中でも残っているというのが、興味深いです。
入不二:まあ、引っかかりばかりっていう気がする。うまくスムーズに行かないのですよね。
田中:(笑)数学の証明とか、定理を覚えたりして、次々場面が展開するところでも、引っ掛かってしまうところが多かったのですか?
入不二:多いですね。それは多かったですけど、さっきの高校時代の話じゃないですけど、私も勉強ができるほうで優秀だったので、そこは使い分けるのですよ。
田中:使い分けはどうされていたのですか? 引っかかるところと、スラスラ行けるところと。
入不二:例えば試験勉強に関しては、一切そういう疑問を封印して、点数が取れるように機械的に勉強するということはしていましたね。
田中:器用ですね。
入不二:その部分に関しては器用だったと思いますね。
田中:勉強が苦手だったわけではないですものね、引っかかりが生じたことで。
入不二:ではないですね。(勉強が)ものすごくできたわけではないですけど、引っかかりに負けない程度には学業は優秀でした。
田中:引っかかっていた部分は、ご自身の中でどういうふうに消化されていたのですか?
入不二:文芸部で消化していたんですよね(笑)。そこで書くことで。
田中:私小説で……(笑)
入不二:はい。
田中:その使い分けはすごいですね(笑) 概念の動性のきっかけについての質問でこういうお答えがお聞きできると思っていなかったので、良かったです、お聞きできて。ありがとうございます。少し最新刊の『現実性の問題』の話にも入っていきたいと思うのですが、この御本が一番最近書かれた方ということで、出版は2020年の秋ぐらいでしたでしょうか。
入不二:夏ですね。8月です。
田中:8月ですか。すごく難解な本なので、私自身も何度も読み直してやっと質問をすべきポイントが絞られてこの機会を頂きました。皆さんお読みになられた方も、もしかしたらようやく消化できているくらいのタイミングなんじゃないかなと思っておりまして。本当ならこういうラジオでインタビューするとすれば、公刊されて直後ぐらいに伺った方が出版社的には嬉しいところだと思います。聴く側の理解のスピードが何分かかってしまい、今に至ってしまったところでございます。
これからお読みになる方もいらっしゃるかと思うので、少し中身の話もお伺いしたいと思います。『現実性の問題』で扱われている現実という概念について、ここだけ読めばなんとなく最初のイメージがつくかなというところを選んで、事前にお伝えさせて頂いておりまして、入不二先生の声で朗読をお願いします。
入不二:では、読ませて頂きます。
「私は、本書を通じて一貫して、現実の現実性が無内包の「力」であることを強調してきた。それは、現実(性)が、内容でも形式でもなく(質料でも形相でもなく)、個体でも一般者でもなく、存在でも無でもなくて、あらゆる対立項に対して貫通的に働くからであった。また(対立項に対して貫通的に働くだけでなく)、論理・様相・時制・人称(視点)の各々の「相貌」を生成変化させつつ(時には潰しつつ)、経巡るものこそが「力」としての現実性であった」(『現実性の問題』p.314)
田中:ありがとうございます。少し難しい言葉もあったので、補足させて頂きます。「質料と形相」というのは簡単にいうと「材料と形」のことで、「無内包」と言われていたところの「内包」は、「特定の内容をもつこと」という意味で使われています。「様相」に関しては、これは哲学用語になるのですが、「可能・不可能・必然・偶然に関わる判断のあり方」ということです。
ご本の中で、現実性の問題として、現実の水準が3つに分かれていて、それを外側から「現に」と副詞的に働く力としてまた別の現実があるとお書きになっているのですが、今、お読み頂いたところが、そのことがコンパクトにまとまっているかなと思ってお願いしたところでした。先生に次にお願いしたいのが、この3つの水準と副詞的に働く力としての「現に」という現実性のところ、この関係とそれぞれの内容についてで。もし可能でしたら簡単にご説明をお願いします。
入不二:簡単には難しいですけど(笑)。
田中:そうですよね、無理なお願いですみません。
入不二:今提示しているのが「まとめ」みたいな図なので。今、田中さんに3つという仕方でまとめて頂いたのですけれど、これは数え方なので、幾つにまとめるかというのはやり方が色々あると思うのですが。田中さんもそういえば、新しいご著書の中で自らの考え方を4つに分類されていたと思うのですが、色々分類の仕方はあるわけです。
ここでは私の本では円を書いて、円環モデルという形で提示しながら、第1章で概観する部分があるので、その円の上に、現実性の区別をまとめて重ねてみますと……。私ちょっと画面からは消えた方が、図は見やすいと思うので消えます。
田中:はい、オンラインの画面上から先生が今、消えてしまいました。
入不二:円環モデルの中で現実性を分類して、いくつ出てくるかというのをまとめた図です。先ほど3つと言っていただきましたが、私としては、現実性0を入れて5つに分けています。全体として、ですけどね。最初の始発点のところで働いている現実性1というのは、こんな意味なのです。
現実性1:何かが起こった(起こっている)という「実現・生起」としての現実
現実性2:……であった(である)上で、そうでなかったかもしれないという「現実性優位」の現実
現実性3:複数の可能性があって、その一つ(局所)として位置づけられた「可能性優位」の現実
現実性4:「現に潜在している」というように、潜在性と表裏一体に働く現実
現実性0:1〜4の全てを通じて働いている「現に」という力(遍在的に透明に働く現実)
入不二:始発点ですから、とにかく何か起こってないと話が始まらないので。何かが「起こった」「起こっている」という仕方での現実の捉え方です。だから始発点に位置付けてあるのですけど(現実性1)。
それに対して、こちら(図2)の円だと右の半円に当たるところ。先ほど言った様相が関わってきて、可能性との関係で現実がどう働いているか、という観点で見ているのがこの右半円です。しかも、それを上半分と下半分を分けています。それが、現実性2と現実性3です。上と下で両方とも可能性と関係があるにもかかわらず、どう違うかというと、ごく簡単にいうと、こうなります。
右半円のさらに上半分というのは、まだ始発点で出てきた現実性が強く働いている段階。つまり、まず何かがとにかく起こって、起こったということがないと始まらない。その現実性が、まだ強く働いている段階。反実仮想というのを考えるのが一番良いのではないかと思うのですよね。「もし、〇〇でなかったとしたら」というのが反実仮想ですけれど、「もし、〇〇でなかったとしたら」ということを考えるためにも、もう既に「〇〇であった」という現実がないと、それはひっくり返して想定できないわけですよね。そういう意味で、まだ始発点の現実の方が優位性を保っているというような段階を2番目と考えます(現実性2)。
円の右半分の下半分になるとだんだんと可能性の力が大きくなってきて、その可能性の中で現実が位置付けられる、という捉え方になってくる。このように可能性が優位になっているのが3番目だと(現実性3)。
さらに円環モデル上では、右半円の可能性の領域と、左半円の潜在性の場、つまり可能性と潜在性を分けています。この左の方の潜在性のところで現実がどのように働いているのかを考えるのが4番目です。現実性と潜在性の関係を端的に言えば、「潜在しているというのは、現に潜在していること」ですし、「潜在的な力は現実に働いている」ので、両者は一体です。この場面では、つまり左半円の場面では、潜在性の場と現実性の両者は、独特の仕方ではあるんですけど、表裏一体にぴったり重なって働いている。そのような捉え方を私はしていて、そういう現実性の働き方を4番目(現実性4)。
これで、1、2、3、4と円の上に位置付けておけば、こんなふうに現実性を分けて考えていることになります。
最後に、実は一番重要なのですが、図では黄色い矢印になっている部分です。0にしていることとも関係があるんですけど、今4番目のところでも言った「現に」という言い方に注目します。この「現に」という現実性は、振り返ってみると、1、2、3、4全ての水準を通して、現れ方は違うんだけど、「現に」という現実性はどこでも働いています。この0番目の「現に」という現実性は1、2、3、4とはいわば水準を異にしていて、それらすべてを貫いて働いている。
しかも「現に」という言い方で表しましたけど、現実性0の黄色い矢印で書いたところは、本当は「現に」という言葉で表さなくとも働いているので、そのことを私は「遍在的に透明に働く」と言っています。水準が違う現実性なので、図では平面になっていますけど、黄色い矢印だけは3次元的に見て欲しいです2次元と3次元の違いが、水準を異にすることを表します。この現実性0のところが、この本の一番のテーマです(現実性0)。
現実性0の話を理解してもらうために他の現実性の話もしているという、そんな関係になるんだろうと思います。分類するとそんな感じになります。
田中:今ご説明頂いたところを最初にお聞きになってから、本を読まれるとすごく読みやすくなると思います。私は最初に本だったので、今ご説明頂いた内容を「ああ、そうだそうだ」と思いながらお聞きしていたのですが、その理解に辿り着くまで3回くらい読んでいました(笑)。自分の理解がなんとなく合っていたな、という答え合わせをしながらお聞きしていたところです。ただちょっと、自分の理解していたこととのズレがどこにあるかということもよく分かったのですが、現実性2と3というのが、やっぱりここで動きが出てくるんですよね。
入不二:そうですね。
田中:そこを分けるというところが、動きの観点からの区別だと思うので。現実性が飛び出ている方が現実性2で、可能性が飛び出ている方が現実性3だというところをちゃんとこれは押さえておかないと、「入不二メガネ」をかけたことにはならないぞ、というのはお伝えしたおかないといけないですね。
入不二:たしかに動きが重要ですね。
田中:そうですね。それで、「表裏一体」という言葉もありましたけど、2と3が可能性の領域で、4が潜在性の場なのですが、2、3、4というのが表裏一体で、どちらかが出ているとどちらかが沈んでいるという、そういうイメージでよろしいでしょうか。
入不二: 「表裏一体」なのは、0と4(現実性と潜在性)であって、4と2・3(潜在性と可能性)は、「一体」であるどころか、むしろ互いに反発するからこそ、「どちらかが出ているとどちらかが沈んでいる」のです。今、詳しく話はできませんけど、円の一番下の方の転回点の考え方も重要です。
始発点のところは、先ほど言ったように、そこがなかったら話が始まらないのが始発点なんですが、そのちょうど180°下にある、転回点は可能性から潜在性に話が大きく転回します。私は可能性と潜在性を、互いに反発し合って背反的なくらいに対照的に考えていますので、この転回がどうやって可能性から潜在性へ、右半円から左半円に行くのかという話は、動きという意味も含めて、重要なところではあるんですよね。
田中:ありがとうございます。音声だけで聴いて頂いている方は、記事の方に図も載せますので、可能でしたらそれも手掛かりにして頂いて、テキストと図で今のご説明を振り返って頂ければ、これから『現実性の問題』を読まれる方には、すごく良いガイドになるのではないかなと思います。
それともう一つ、「限界」の話がご説明の中で少しあったと思うのですが、現実性0のところが言葉で指し示すことができる限界を超える効果を狙って「力」というメタファーが使われているのかな、と思ったのですが、その理解で合っていますか?
入不二:そうですね、基本的にそうだと思います。
田中:はい。それでごめんなさい、3水準だと言ってしまったのですが、4水準ですね。現実性1の始発点を1と数えると。現実性0というのが「力」として、この4水準を還流している、円の中を流れているというイメージで、描写されておりますが、力というメタファーではなくても、光や熱でもあり得たのじゃないかと思うのです。力のどういう特性に注目してこのメタファーを選ばれたのでしょうか。
入不二:そうですね。確かに光とか熱も還流するという意味では、そういうメタファーはありうると思うのですけど。還流するという意味では、右半円から左半円を辿っていく中で、力が伝わっているというイメージを伝えるのには、光や熱でも良いのかもしれないですけど、しかし光や熱ではまずいところもあると思うのですよね。
というのは、光や熱って、ある特定の領域で働く力なわけですよね。物理の領域においては、ある特定の働き方をする力として熱が位置付けられていると思うのです。つまり何がまずいかというと、メタファーとして使っても、光や熱では特定の領域で働く力として考えられて限定されてしまって、力の「限定されなさ」を十分に掬い取れない。
もちろん物理の話をしているわけではないので、メタファーなわけですが、あえて物理的なメタファーを引き摺るならば、光や熱より、まだ「重力」の方がいいんじゃないかと思うのですよね。
田中:重力……。
入不二:ええ。重力のもっている普遍的で透明な働き方が、メタファーとして優れている。しかしもちろん、重力メタファーでもまだ不十分です。というのも、4つの力を統一する理論という話があるじゃないですか。電磁気力と、強い力、弱い力、重力。その4つの力の統一理論。もちろんまだ、統一理論は見出されていないわけですが。
そこまでメタファーを引き摺るならば、重力も4つの力の中の一種類になりますから、普遍性が足らないことになります。むしろ、仮に4つの力を統一して説明できる水準の「力」があるとしたら、その「力」こそが、一番普遍的で包括的になるわけですよね。そういう最終段階の「力」がメタファーとして相応しい。ですから、そこから振り返ると、光と熱はその部分で不十分なのではないかと。
田中:メタファーですから、その言葉でイメージするものと近いものとして考えて欲しいという狙いがあるかと思うのですが、光や熱だと入不二先生の見ておられる動きのところと合致しないところがあるということですね。
入不二:それに最後に4つの力を全て統一する力みたいなところまで、物理をメタファーに使うなら行きたいわけですが、それでも不十分だというのもすごく大切なところです。つまり、そこまで行ったとしても、それはあくまでも「自然的な力」なのですよね。物理由来のメタファーですから。物理の力は自然の力ですから。しかし、私がここで「現に」ということで言おうとしている現実性の力は、全く自然の力ではないのですよ。
そこを強調して言うなら、「自然の力」ではなくて、「形而上学的な力」「メタフィジカルな力」だという言い方ができます。そこでは先ほどの自然的なメタファーは全部投げ捨てる必要があるわけですね。あるいは、自然的なメタファーをメタフィジカルなメタファーとしてジャンプさせる……。
田中:一応、光や熱からここまで言ってきたにもかかわらず……(笑)
入不二:はい。ですから、その「投げ捨てる」「ジャンプ」という動きを含めてのメタファーだと思うのですよね。
田中:わかりました。
入不二:これってヴィトゲンシュタインの『論考』の「はしご」的だと思うのですよ。はしごを登るのには使うけど、最後に投げ捨てるじゃないですか。「力」のメタファーに関しても同様だと思うのです。
田中:なるほど。そこもちょっと引っ掛かったところでした。メタファーといっても言葉なので、言語による対象化からどうしても免れないのではないかという疑問があったので、はしごを投げ捨てなきゃいけないというのがポイントですね。
入不二:そうですね。
田中:今までの図とご説明で、先生のご本の中の問題意識のポイントがクリアに伝わると思います。あと、一般の方にも興味をもって頂けそうな、動物の観点からの現実の問題への言及がございましたので、猫の箇所を最初に、お読み頂いてもよろしいでしょうか。
入不二:285ページですね。
「この猫という「これ性」は、「力」の還流と(接点を持つだけでなく)そのうちに巻き込まれて、「これ性」は、特定の内包からの自立度を高めていく。この猫がこの猫であるのは、特定の内包を持つからではなくなる。「この私が愛するこの猫」であり、「この猫と生きる世界がこの世界」であり、「この世界がこの私」である。そのような「これ性」の流れに組み込まれているから、この猫がこの猫になる。この猫の「これ性」は、局所(猫の所)だけで閉じることはなく、全域と局所を経巡る」
田中:ここは私、一番好きだったところだったのですが、猫の話で力の還流の話が伝わると良いなと思って、勝手ながらお読み頂いたところでした。ありがとうございます。「この私が愛するこの猫」という世界は力としての現実というものとぴったり重なっているというイメージなのでしょうか。
入不二:そうですね。今読んだところに現れていないポイントの一つは、この猫には名前があるということだと思うのですよね。もちろん私は猫を(かつて)飼っていてキドという、もう亡くなっているのですが、ガブリエル・ドロ・キドという名前を彼はもっていたのです。
田中:お名前が、長いですね……(笑)
入不二:もちろん普段はキドって呼んでいましたが、フルネームはガブリエル・ドロ・キドなのですけど。
田中:苗字などはなくて、一続きのお名前ですか?
入不二:えっと、ガブリエル・ドロ・キドです。
田中:ドロがミドルネームですね?
入不二:そうですね。
田中:わかりました。
入不二:そういう固有名をもっている動物だっていうことが、ここでの大きなポイントです。私の本の中では、まず野矢茂樹さんの議論があって、それを下敷きにして議論を進めている場面です。野矢さんの方は犬で、「ポチ」という固有名がついていて、そこからいくらでも語りが出てくることが固有名の力として説明されている。野矢さんの議論では、力と相貌という対があって、その力のほうが「語り続ける」力として「ポチ」という固有名と結びついている。
その議論を下敷きにした上で、先ほどの現実性の力の還流という話を、私はしています。固有名がついているというところが一番重要な点なのですが、そこには、単に「語り続ける力」だけでなく、「これ」や「この」という「現実性の力」が現れているわけです。「他ならぬこの猫」だとか「この私が愛している猫なのだ」とか、それは猫がどういう猫であるかとか、私がどういう人間であるかとは関係なく、「この」によってつながっているわけです。
その「この」は、「この世界」でもあるし、「この私」でもあるし、「この猫」でもあるし、そういう「この」の部分を通じて実は現実性の力が還流している。「この」を通して現実性の力が巡っているという部分を、固有名に重ねて強調したのが、私のほうの論でした。
田中:ここは猫好きの人は共感してもらえるポイントなんじゃないかと思います。他の動物が好きな人には「何を言っているんだ」と言われるかもしれませんが、「この」が現実性を象徴して、猫とつなぐ力になっているというところはすごく共感できます。
入不二:さらに、ここでせっかく動物の話が出てきて、現実性の力と動物の兼ね合いの話になっているので、私の本の中ではもう半分の側面があることも言っておきたいです。それは今言った固有名がついている動物ではない、むしろ匿名の動物を考えている場面があって、それは端的に言えば猛獣みたいなものを考えているわけですよね。
名前をつけて一緒に生活している猫とは違う、どこかから突然襲ってくる猛獣。当然私のことを噛み殺してしまうような、そういう動物の力ももう半分考えています。それもまた現実性の力が働く半面なので。つまり、固有名を通してこの世界を共有するというあり方も動物との関係における現実性なのだけれど、そういうものを一挙に壊してしまうような、襲ってくる力も動物に重ねられる現実性の力です。そのもう半分もあるということは、やっぱり言っておくべきだろうなと思うのですよね。
田中:動物の例を通して、現実のその二つの側面が語れるというのは、わかりやすいですね。2つ目の動物の話に関わる本文もう1箇所、お読み頂いてもよろしいでしょうか。
入不二:316ページですね。読みます。
「(言語を持たない)動物であっても、翻訳は可能であるし、実際にしている。この場合の「翻訳」とは、動物の現実を「擬人化」して捉えたり、科学的知見等によって「合理化」して説明したりすることである。擬人化や合理化等は、動物的現実をわれわれの言語へと翻訳することに相当する。もちろん、そのような意味での翻訳可能であるとしても、動物の「現実べったり」の観点を、われわれが実際に習得することは不可能である。「もし仮にその動物的な観点に立つとしたら」と仮想することまでは可能であるが、実際にその観点に立ってしまうことはできない。というのも、そのできなさ(動物的現実の習得不可能性)」が、人間的現実(言語が開く可能性の中で生きていること)に他ならないからである。あるいは、動物の「現実べったり」の観点に立つことは、(新たな観点の)「習得」ではありえず、むしろ(観点の可能性自体の)「忘失」だからである。 」
田中:ありがとうございます。最初にお読み頂いた、猫と「これ」という力を通じて一つの現実世界を共有しているというお話と、今2つ目にお読み頂いたところは、かなり相対する部分だと思って伺っていたところです。2つ目のところの「言語が開く可能性の中で生きていることに他ならない」というお話があったのですが、動物は言語を話さないという想定で、そういった我々の言語的理解の中でひらかれる現実認識とはまた別の現実が動物の中にはあるという、そういう理解でよろしいでしょうか。
入不二:そうですね。先ほどの固有名がある(猫)に対して、そうではないある種の猛獣を含めて、そちらの方の動物の力というのがやっぱりあるし、話をものすごく単純化すれば、先ほどの円のモデルの左側の潜在性の方というのは、猛獣の力にむしろ近い現実、というくらいに非常に大雑把にですけど(対応している)。
つまり、固有名をつけてこの世界を一緒に生きる動物との関係は、むしろ円環モデルでいえば、つまり可能性って結局言語と密接に関係しているわけなので、右半円の世界の話なわけですよね。だけど猛獣を一つの例とするような、荒れ狂う力にもなりうるような場面というのは可能性の話ではなくて、潜在性の場の話だというくらいに私の中では大雑把に対応しています。しかも、猛獣だけではなくて、言葉を話す私の中にもまた、左半円的な動物の力が実は潜在しています。私の中にも「獣」はいるということです。
田中:言語を話すかどうかという転換の区別の仕方で、そこでも関わってくるところなのですね。
入不二:そうですね。しかも、言語の働きに相当する右半円よりも、左半円の力の働き方が、現実というテーマに関してはより重要だと感じています。
田中:猫と仲良く生活している生活よりも、自分が襲われるかもしれないという動物に囲まれているような世界観の方が、現実をよく表しているということでしょうか。
入不二:もちろん両方、現実なのですが、左半円を強調したい側面がありますね。
田中:人間の中でも小さいうちはまだ言語を習得していない時期もありますし、歳をとって言語が失われてしまう段階もあると思うのですが、先生の中では、幼稚園のときにいろいろなものが見えていてそれをご自身なりに記録していた時代は、そういう観点から見ると、その時の現実はどちら側だったのでしょうか。
入不二:幼稚園の頃はもう書いていましたからね。そういう意味では、不十分ながら言語を身につけてしまっていて、それで活動しているので、可能性の領域の中に既に取り込まれていることになりますね。
田中:取り込まれるのが、早いと思います(笑)
入不二:早いから、抵抗感が強く残っているとも言えると思うのですよね。
田中:取り込まれつつも、違う側面を同時にもっていたのかもしれませんね。言葉は使ってあげてもいいけど、という感じで。両方もちえる(そして、潜在性を強調したい)というところの世界観がとても魅力的に思えます。
折角なので読者の方からの感想も伺いたいところです。どういう感想が印象に残っているか、お聞かせ頂けますか。
入不二:たくさんありすぎて、時間がなくなっちゃうので、3つだけに限定します。Amazonレビューの一つなんですけど、この読者は、画家のエッシャーの絵と私の哲学を比較してくれているところが一番印象に残って。エッシャーの絵ってどっかで必ず見ていると思うんですけど、2次元上、あるいは3次元上では本当にはありえないことを逆に2次元上でありうるかのように絵にしている、そういう特徴をもつエッシャーの絵と私の本の読書体験を重ねてくれているというところが一番印象的です。
私自身がエッシャーのファンなので、そういうこともあって、そのエッシャーと並べてくれているのが嬉しくて。「哲学界のエッシャー」とまで言ってくれているので。これすごく長くて、全体像はこんなに長いので、Amazonの方で読んで頂くのが良いかなと思います。
田中:ちゃんと先生の動的な概念ですとか、奥行き感ですとか、見方によって全然違うものが見えてくるとか、そういうものがエッシャーという言葉で象徴されていますよね。
入不二:そこを捉えてくれているのでしょうね。もう一つ2番目ですけど、これはTwitterに書かれたもので、二つの読み方があると書いてくれていて。一つは哲学書ですから、哲学の本として当然読むわけですけど、むしろ嬉しかったのは、何か「元気が出ます」っていう感想ですよね。これは意外であると同時に、あれを読んでくれて元気が出る人ってすごいなって思ったのですよね。「元気の素」とまで言ってくれていますし、「腰が据わる」とか。
さらにそこから、現実性が「贈与」なんだとちょっと抽象的な話につなげてくれていて、確かに、先ほど言った第0水準の現実性の働き方って、ある種、贈与的なんですよね。そこを感じ取った上で、何か「元気が出る」ってまとめてくれている、この感想は嬉しかったですね。
田中:元気だけでなくその「素」ですからね。
入不二:「元気の素」って言っていますね。
田中:読むたびに元気が湧いてきちゃうのですものね。私も著者なわけではないですが、この感想は読んでいて元気になりますね。
入不二:で、3つ目ですけど、これは高校生からの感想で。
田中:こちらは私も拝見しましたね。お願いします。
入不二:高校生ということだけでも実はびっくりなんですけど、単に高校生だからというのではなくて、自らがそもそも考えていて、言葉にできない何かの部分を高校生自身が考えていて、それがここに書かれていることを見出したという衝撃を伝えてくれているのですよね。
田中:「ここに」というのは先生の本の中に、ということですね。
入不二:そうですね。本を読むことでそこに衝撃を受けて、しかもこれ夏休みだったので、夏休みの課題の文章として書くと言っていて、実際書いたそうです。
田中:これは拝見してみたいですね、もしお聞き頂いていたら。もしよろしければ、できた課題をご共有頂けましたら、哲楽で公開させて頂きたいです。
入不二:そういう意味で、非常にびっくりした感想でした。
田中:ちょっと読ませて頂いてもよろしいでしょうか。この方がお書きになっている感想の一部です。
「「現実性」という考え方は、私が抱えていた「言葉にできない何か」を解き明かすあまりにも衝撃的なもので、大変感服致しました。このような名著にリアルタイムに出会えたことを嬉しく思います。「現に」という在り方は、私にとって希望です」と。
入不二:今度は元気じゃなくて、希望が出てきました。
田中:でも「元気の素」と「希望」はちょっと似ていますね。
入不二:そうですね。
田中:人を前向きにさせるということですよね。私自身も同じような感想をもっていたところです。漢字2文字でいうと、「諦念」という、仏教用語かもしれませんが、その言葉が浮かびまして、先ほど辞書で意味を調べました。「道理をわきまえて悟る心、諦める」という意味があるらしいのですが、この言葉がぴったりきました。そのような現実ならば諦めるしかないし、自分で自由にやるしかないと、そういう元気の出方はありますね。
入不二:なるほど。
田中:すみません、私の個人的な感想までお伝えしてしまったのですが、つまり、先生の『現実性の問題』はすごく実用性がある本でもあると思うのです。難しくて哲学そのものを理解するのには、1、2年かけないと理解が追いつかないところがあると思うのですが、何回も読んでいるうちに、実用面が身に付くと言いますか。語彙をそういうものとして受け入れていくうちに諦めの境地になっていくという……(笑)。
前に書かれている本についても感想が届いているかと思いますが、『現実性の問題』の感想とはまた違った面があるのではないでしょうか。
入不二:本の種類が違うと感想もやっぱり違ってくるわけですが、一つ前に書いた『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』(講談社)は、連載で書いていたものを一つの本にしたので、そもそも書き方や流れ方が違うところに注目して感想を言ってくれて、比べてくれている人がいたのも、こちらとしてもありがたいし、面白いところです。
田中:すごく細かく追いかけておられる読者の方がいらっしゃるのですね。
入不二:ありがたいことです。
田中:素晴らしいです。良い読者の方に恵まれていらっしゃるということですね。
最後にもう一つだけ。入不二先生に先ほどから伺っている概念の動きについては、「概念の脈動性」というふうに言えるのかなと思うのですが、そういうものをテキスト情報に落とし込む際の文房具ですとか、ソフトウェアですとか、何か秘密の道具があれば教えて頂きたいです。
入不二:秘密の道具はとくにないのですけど。もう10年以上になると思いますが、完全にデジタルになってしまっているので。昔は、幼稚園の頃もそうですけど、大学院生になるまでは、ワープロとかそういうのがなかった時代なので、当然ノートを使っていたのですが、ある時から完全に移行してしまって、今はこの時点ではアナログのノートを使っていないのです。
田中:鉛筆も?
入不二:ええ。執筆も執筆の準備も含めて、全てデジタルなのです。これは、11月の末に出る『現代思想』(青土社)のちょうど書き終わっている原稿なんですけど。これを書くときに使っているワープロは、egword universal 2(物書堂)というアプリケーションなんです。私は書き始めて最後までほとんど一挙に書いてしまうのです。Twitterで書いたことがあるのですが、私は書くことで苦労した経験がないんですよ。
田中:それはすごいですね(笑)
入不二:書けなくなるとか、途中で詰まってしまうとか(はないのです)。途中である段階では立ち止まって、書き直しはしますが、ですから螺旋形で進んでいくのですが、どこかで詰まってしまって書けなくなるという経験が、これまで一度もないのです。
この画像は原稿用紙的な設定で、私が書きやすいように設定してあって、最初から書き始めて、時間はかかるけどとにかく前へ前へと進んでいって、最後まで一挙に行くという書き方をします。これは50枚(2万字くらい)の論文ですが、1週間で書き上げました。書くことに関しては何の苦労もないので、あんまり人に役に立つことが言えないのです。書きたいように書いているだけだから。
田中:そうですね(笑) 苦労している人がこのツールを使えば執筆時間が早まるよということを聞きたいと思うので、そもそも苦労されない場合は、羨ましいなとしか言いようがないですよね……。
入不二:そういう書き方が、良いのか悪いのかちょっとわからないですけどね。羨ましいと言われたとしても、本当にこの書き方で良いのかっていう疑問は残ります。でも、染みついた自分のスタイルなので、もう変えられないと思うのですよね。
田中:勝手なイメージですけれど、プロットやスケッチみたいなものを最初に書いた上で、文章を書き出されるのかな、と思っていました。
入不二:先ほどの幼稚園の頃の話ともつながるのですが、それはもう頭の中にあるのですよ。つまり書く段階では、既に頭の中の空間にちゃんと準備できている。位置を移動したりとか、切り貼りしたりとかいう作業は、既に頭の中で行っているので、それは別に書き出す必要がないのですよね。
田中:そうすると、テキストを変えると頭の中のイメージも変わるのですか?
入不二:変わります。そこは連動しています。
田中:リアルタイムに?
入不二:リアルタイムもありますし……。私はよくお風呂の中でその(空間思考の)作業をやります。一番頭が活性化している場所みたいなのです、私にとっては。
田中:温まると熱が上に上がって……(笑)
入不二:そう、血流がよくなるのと関係があると思うのですけど(笑)。風呂で色々気付くわけですよね。頭の中で操作しながら、これはこっちで、これとこれとはこうつなげた方がって。何か閃いた場合には、即座に風呂を出て、そこはメモしないと忘れてしまいます。そういう閃きは、記憶することがうまくできない。やってくるタイミングに合わせるしかない。あと寝ているとき、夢の中でも出てくることがありますね。それは無意識的な作業なのだと思います、きっと。
田中:ということは、イメージの方が(常に)先なのですね?
入不二:そういう意味ではそうですね。イメージの中である程度は完成しているのですよね。
田中:だから困らないのですね。
入不二:実際にそれを書き始めて、もちろんイメージの訂正は起こるわけですけど。
田中:幼稚園時代から能率手帳で記録されていたキャリアですから、それが可能になっているのではないでしょうか。
入不二:つながっているかもしれませんよね、そこは。
田中:ちょっと真似できないので、参考にならなかったです……(笑)
入不二:参考にはならないと思うのですよね。
田中:でも、先生の頭の中がどうなっているのかイメージするにはとても役立ちました。そういう方もいらっしゃるんだっていう……。
入不二:ただ、もちろんそうは言っても、これは実際に執筆するときのアプリケーションで、それ以外に、もっと短いものを書くときには、これはUlyssesというライティングのためのアプリケーションなのですけど、ちょっと短いものを溜めて書いていくのに適切なので使っています。
ですから、さっきのegword universal 2は論文一本書くぞというときに使いますけど、そうじゃないもうちょっと短いものを日常的に書くときには、普通の横書きで、このアプリケーションUlyssesを使います。これはものすごく軽快な動きをするので、そういうものを使って普段から書きたいことは書き続けているというのはありますね。ただこれをコピペして向こう(egword Universal 2)に持っていくわけではないのですよね。あっちはあっちで、ゼロからさっきのように一挙に書くので。
田中:Ulyseesの方は、長い文章を執筆の際には見返さないのですか?
入不二:これはあまり見返さないですね、そういえば。時々、検索にはかけますけど。
田中:無尽蔵に書きたいことがちゃんとまとまった形で出てきているというのが、羨ましい限りです。
入不二:倉庫みたいな感じですね。
田中:でも、このメモ書きの方も、頭の中の動きのイメージを忘れないように書き留めるという記録の意味があるのですね。
入不二:そういう記録の意味はあります。
田中:能率手帳の続きですね、これは。
入不二:そうですね。それ以外に、書く以前のメモとか記録を最近では、Notionというソフトウェアで管理していますし、もう一つ、これはアウトラインをシンプルに作成できるソフトウェア(Workflowy)も使っていて、自分専用の情報の倉庫のようになっています。
さっきのUlyssesが中程度の長さの文章の倉庫だとすると、NotionやWokflowyがもっと短文の文章や情報の倉庫みたいな感じです。
田中:たくさんのものを使い分けていらっしゃるのですね。
入不二:ええ、そういう意味では使い分けていますね。そんな複数のものを使ってはいます。ほんとうは、どれも使っていて気持ちのいいツールだから、というのが一番の理由ですが(笑)。
田中:動きみたいなものはどこで表現されるのでしょうか。
入不二:それはやっぱり長い文章にしているときか、あるいは頭の中であれこれ考えているときでしょうね。
田中:Ulysses上では矢印のようなものも見えますけれど。
入不二:その程度の動きしか残せないですね。動きは絵を描かないとなかなか残しにくいので。これは特に授業で使っているアプリケーションですが、絵を描くのにも使っています。これは、Explain EverythingというiPad用のソフトウェアなのですが、授業で今オンラインですけど、黒板に書いて提示して授業をするときに使っています。この画像のように、黒板に絵を描いて授業で呈示します。授業だけでなく、自分のアイデアのメモ書きとしても、このソフトを使って、簡単に図を描いて自分のアイディアを残しておくことはあります。『現実性の問題』に出てくる図も、原稿段階では、これ(Explain Everything)で作成しています。
田中:使い分けが気になるところですが、先生の書かれるテーマですとか、問題の内容に応じてどれを先に使うといったことが決まっているのでしょうか。
入不二:さっき言ったような形で、一挙に長いものを書くというのは毎日やっていることではないわけです。論文を書かなくちゃいけないときに、1週間とか1ヶ月とかまとめて時間を使って、そこで一挙に書くので、普段やっていることはそこじゃないわけですよね。もっとぶつ切りの短い文章であったりとか、単なる単語、ちょっとした絵であったりというのは常時日常的にやっていることですが、そういうものが溜まったり、閾値が超えたりしたら、論文や本が生まれてくるというような感じだと思います。
田中:もう文章レベルになるとほぼ完成されているのですね。
入不二:そうですね。そういう意味ではそうだと思いますね。
田中:これからレポートなどを書かれる方が参考になるかと思って伺ったのですが、鍛錬の仕方やキャリアの長さが随分違うので、ご参考にして頂けるかわからないのですが……(笑)
入不二:ただ、今の話で、参考にしてもらえるところがあるとすれば、色々面白いアプリケーションはあるよというところだと思います。
田中:わかりました。ちょっと触って頂いて、自分に合うものを見つけて頂くのが良いかもしれませんね。
入不二:ええ、そうですね。
田中:高校生も評論を書いて下さっていますから、何か参考になりそうなところをお届けできれば嬉しく思います。先生、長い間お付き合いくださって、ありがとうございます。
入不二:こちらこそ、ありがとうございます。
田中: 今日は入不二先生が考えていらっしゃる中身がとてもクリアにわかったということと、先生の眼や書かれるものを通して、概念が伸び縮みするうごめくクリエチャーみたいなものとして考えると、自分が日常生活の中で悩んでいることなども、考えるということの形式に縛られて、自動的に発動しているものだから、それでそんなに深刻に悩む必要はないよと言って頂いているようなところもあって。そういう意味でもとても実践的で、「諦念の哲学」だと、私自身は思っております。今日はお時間頂いてどうもありがとうございました。この後、確認のお時間も頂くことになるかと思いますが、よろしくお願い致します。