音楽と哲学で生きる方向を見定める

2015年2月17日

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風間コレヒコ
福岡県生まれ。千葉大学文学部行動科学科で哲学を学ぶ。2004年に3ピースバンド「デラシネ」を結成し、これまでに3つの作品をリリースしている。現在は障害者の自宅介助員として働きながら、ライブ活動を続けている。




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風間コレヒコさんは、週の3日を障害者の自宅介助員として働き、残りの時間をミュージシャンとして活動している。高校時代に、地元の福岡で見たアンダーグラウンド・バンド「人間」のライブに衝撃を受け、直後に友人3人でバンドを結成。ノイズやパンクを織り込んだ音楽作りが、自分が初めて見つけた「夢中になれるもの」だった。

哲学との出会いは、高校卒業後に永井均氏の『〈子ども〉のための哲学』を手にした時に訪れる。「この本に書かれてあることが哲学なら、自分が小さい時からやってきたことと同じなのかもしれない」、そう考えると胸が躍った。本の内容と、小学校三年生の時に隣の席の松崎さんと話した不思議な会話が重なった。「他の人にとっての色の見え方は、確かめようがないはずだから、僕が赤と言っている色も、松崎さんにとっては青かもしれないよね」と言うと、松崎さんも「そうだね」と返したという。それからクラスの友達にも、青と赤をあべこべに呼ぶことを始めた。時々、間違って赤色を赤色と呼んでしまうと「え、風間にとっては青じゃないのかよ」と突っ込みを受けるほど、「風間君はちょっと変なやつ」という認識がクラスの中で共有されていた。通信簿には「風間君は哲学的なのは良いのですが、もう少し素直になりましょう」と書かれた。「哲学的」という言葉の意味が分からず、母に尋ねると、「あまのじゃくってことよ」との返答。その後、十数年経って初めて、永井氏の本で、自分の問いが哲学史上議論されてきたものだと知ったのだ。

その本を読み終わると、風間青年はすぐに福岡から千葉大に電話をかけた。「永井先生はいらっしゃいますか、ちょっと話をしてみたいんですけど」。そう言うと、電話越しの事務の女性は「では受験して下さい」と答えた。猛勉強でみごと千葉大に合格して、希望通りに永井ゼミに入ると、それから卒業までの4年間、言語哲学の世界に浸った。在籍中に「デラシネ」という3ピース・バンドも結成。アルバムをリリースするも、大学を卒業してから、仕事らしい仕事に就くことなく、アルバイトを転々とする。そんな時、音楽仲間から、障害者介助の仕事を紹介された。

ここでもまた、その面白さに急速にはまった。続けていて楽しい仕事は初めてだった。この仕事は、「頑張ってはいけない」仕事なのだと気がついたとき、自分の役割がわかった。自分が介助している人が赤信号を渡りたい、お酒を浴びるほど飲みたいと願ったら、一緒に間違いを犯すのが介助者の役割なのだと。重度障害者向けの福祉施設から出て、自由に生きたいと願う人々の生き方に寄り添うのは、飽くことなく刺激的だった。ライブの海外遠征で異文化の価値観の違いに触れたときと同じように毎日が新鮮だった。気がつくと、介助の仕事を始めて7年が経っていた。

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そんなとき、「哲学」と「音楽」が不思議な形でリンクする体験をする。それまで楽譜でしか同一性を保てなかった音楽表現のなかで、演奏者個人のグルーヴ感が、コンピューターで正確に再現できるようになりつつあった。そのことと、哲学業界が言語論的転回を迎え、人の印象や観念の分析から、言葉の分析が哲学者の仕事として流行し始めたことがぴったり重なることに気がついたのだ。これこそ「現代の潮流」なのだと理解したことで、「それだったら」自分の音楽はコンピューターや言葉で再現できない表現を追求したいと思うようになった。

幼少期からの口ぐせ、「それだったら」。あまのじゃく精神がここでまた開花すると、月に一度の頻度で、ソロでのライブ活動を始めるようになった。「機械で再現できないのは、自分の身体そのものなのかも」。その直感を確かめるように、全国各地のライブハウスで、今もノイズ音を響かせている。

最後に「今度は哲学の話を書いて表現してみたい」と意気込みを語った風間さん。インタビューが終ると、言葉をつなげた。「あと、もう少し喋ってみたいんですけど」。穏やかなその声は、小学校の教室で、隣の席の松崎さんに向けられたものと同じだったのかもしれない。

 

    このインタビューは哲楽珈琲の提供でお届けします。コーヒーブレイクには、哲楽珈琲をどうぞ。

このインタビューは哲楽珈琲の提供でお届けします。コーヒーブレイクには、哲楽珈琲をどうぞ。

インタビュー

※音声収録の後に加筆・編集していますので、podcastの内容と同一ではありません。

哲学界にノイズをぶちまける快感

 

——先日、雑誌の主催で「哲楽ライブ」というイベントを行いました[i]。これは、生粋の哲学者と哲学科出身のミュージシャンが歌い、語るライブということで、哲学科を卒業した方々や、哲学を今まさに学んでいる方々が、ご友人や恋人を連れて来られるように企画しました。風間さんもそこで朗読と、永井均先生との対談と、ノイズのライブも披露してくださったので、その時の感想からお話いただきたいと思います。

 

風間:そうっすね、やっぱり対談に関してはあれでしたね、うまく説明できないなっていうか。話していて人に伝わっている時って、伝わってるなって感じが喋っていてわかるものなんですけど、あの時は、掴みきれない感じがずっとあって。音楽をやっていても一緒なんですけど、会場の空気みたいなのを掴めている時ってやっぱりやっていてわかるんですけど。普段は、あんまり話すことってないですから、あの時は、難しいもんだなっていうか(笑)。まあ自分の哲学的なアレが足りてないというのもあるんですけどね。

 

——表現する難しさということですか?

 

風間:そうっすね。永井先生は直感的にずばって、誰にでもわかるような言葉で言えたりとか、そういうのがすごいなあと思って。やってみて、そのへんが勉強になりましたね(笑)。

 

——普段のライブとどの辺が違っていました?

 

風間:ライブと全然違うっちゃあ違うんですけど。会場の空気を掴めてるかどうかみたいなところとかはすごく似てるなあと思いましたけど。うーん。まあちょっといっぱいいっぱいでしたね(笑)、あの時は。

 

——対談のあとにもライブを控えていて。結構配線が大変な、仕掛けが大掛かりなものだったので、それがうまくいくかどうかっていうのも頭にありつつお話いただいていたと思うのですけれど。

 

風間:ちなみにリハの段階では一回もまだ配線がうまくいっていなくて、「まあなんとかなるっしょ」みたいな感じで、リハを終えてたんですけど、時間が残り5分ぐらいになってたじゃないですか。「音、出ないかもな」っていうのはちょっと思ってたけど。でも、ライブはライブですごく楽しかったですね。あの時って僕のライブで見る顔の人もちらほらいたけど、基本的にはやっぱ哲学関係の人だなあ、と。だから、普段ノイズとかにそんなにこう馴染んでないだろう人たちの前でノイズをまき散らすのって、ノイズのやりがいがあるっていうか(笑)。

 

——怖いと思わなかったですか?

 

風間:いやぁ。普段はずっとライブハウスとかでやってるもんだから、逆にわかってる人の前でわかってることをやっちゃう面白くなさ、みたいなのがあって。哲学の世界もそうかもしれないですけど、音楽の世界もわりとやっぱり閉じてるんですよね。ライブハウスにくる人ってすごく限定されていて。企画もよく自分でやったりするんですけど、どうやったら普段来ない人たちを巻き込めるかみたいなことをよく考えているもんで、ライブハウスとかに集まってくるような人たちじゃない人たちがいるところでやれるってのは、すごく楽しかったですね。

 

哲楽ライブでノイズのパフォーマンスを披露

2014年11月23日に哲楽ライブでノイズのパフォーマンスを披露した風間コレヒコさん

 

——私が後で聞いた話だと、哲学を音楽で、音楽的な文法というか表現の形態で表現する時に、「ノイズってすごく、考えてみればぴったりだったかもしれないですね」ということを言っていた人がいて。風間さんにお願いしてよかったなと(笑)、思っていました。

 

風間:普段はああいうのをいつもやっているわけじゃないですけど、何か音楽を演奏してくれっていう話になって、何がいいかなあと思って。普段やってるやつとかよりも、ノイズフィードバックのほうが何か、いいかなって思って。僕も何か、それはわかる気がするんです。

 

——多分、聞いてくださっている方には、どんな感じのライブだったかイメージできないと思うのですが、どういう仕掛けだったのか、教えて頂けますか?

 

風間:あれはそうですね、一台だけフィードバックを起こしてて。フィードバックってのは、まずテレビにはビデオカメラで撮った映像が流れてるんですけど、でもそのビデオカメラは当のテレビ自体を撮ってるんです。だから、自分が撮った映像をまた自分で撮って、みたいな、鏡を合わせ鏡にしたみたいな感じの、ずーっとこうループして、自分が映り込んじゃってるみたいな…。自分の捉えている映像世界の中に自分がまた入り込んじゃって、ずーっとループしていて、うじゃーってなってるみたいな感じですね。

 

——音はどういう風に出しているんですか?

 

風間:音も同じですね。音もスピーカーにマイクを向けて、自分が録った音がスピーカーから出てるんですけど、そのスピーカーから出てる音をまたマイクで拾って、拾った音がまたスピーカーから流れて、っていうのがずーっと循環して、ループして、フィードバックノイズが起こる。僕は、フィードバックノイズは「風間くんの質問=批判」[ii]っていうのと何かリンクするなーと思って、それであれをしようかなと思ったんです。「風間くんの質問=批判」って、いきなりその話をしてもあれかもしれないですけど(笑)、やっぱ、何かこう、客観的世界の中に唯一の存在であるこの〈私〉を風間コレヒコとして位置づけなくちゃいけない、っていう時に起こるような問題のような気がしてて、その位置づけ作業っていうのが、フィードバックしちゃっているような感じがするんです。自分が撮っている映像世界の中に自分自身がまた映り込まなくちゃいけないっていうフィードバック現象みたいな、それとリンクするなあと思って。

 

——「風間くんの質問=批判」っていうのは…。これ説明するのが難しいですよね(笑)。

 

風間:簡単ちゃあ簡単なんですけどね、発想自体は。

 

——では、ちょっと簡単にお願いします。

 

風間:これ後で編集とかできます(笑)?説明できるかな…。やっぱり一番の問題は、この人が〈私〉である、っていうことは、世界の中の事実ではないっていうことですよね。世界の中の内容とは関係ないっていう。これ、時間の方で考えた方がわかりやすいと思うんですけど。今日は2015年1月8日ですけど、2015年1月8日だけが「今」で、2014年の1月8日は「今じゃない」じゃないですか。で、2015年1月8日だけが「今」なんだけど、2015年の1月8日が「今」じゃなくなったとしても、世界の内容には変化がないですよね。たとえば、2015年1月8日が「今」じゃなくなって「昨日」になったとしても、「2015年1月8日の山谷の天気」は変わらないし、「2015年1月8日の風間の発言」が変わることもない。つまり、2015年1月8日が「今」であることは、2015年1月8日の世界の内容と因果関係・影響関係を持ってない。ちょっと待って下さい…。意外と難しいんですよね、説明するの。

 

——でも、フィードバックノイズの話でいうと、関連していそうですね。「今」にもう本当に入り込んじゃってて。本当に「今」が「今」なのかって言っている言葉さえも「今」の中に吸い込まれちゃってて。

 

風間:そうなんです。だからすべて「今」の方に吸い込まれるっていう言い方もできるし、逆に言えば、すべて2015年1月8日の風間の発言にすぎないとも言えますよね、2015年1月8日の風間の発言にしかすぎないんですもん。いま、僕が何を言ったとしても。だから僕がいま、どんだけこの「今」について、特別な「今」について説明したとしても、「2015年1月8日の風間の発言」でしかないですよね。そして「2015年1月8日の風間の発言」はそれが「今」じゃなくても変わらないわけだから、僕は2015年1月8日が「今」じゃなくても言えるようなことしか言えない。つまり、僕は原理的に「今」であることと無関係な発言しかできないってことですね。僕が今何を認識し、何を思い、何を発言したとしても、すべて「2015年1月8日の風間の認識」「2015年1月8日の風間の信念」「2015年1月8日の風間の発言」の方に吸い込まれていってしまう。だから僕は「今」であることと無関係な認識・信念・発言しか持てない。そういう意味で、特別な「今」ってのは捉えることができてはならないはずのものじゃないのか、っていうのが僕の疑問なんです。

 

——それは言葉にしたとたんに…?

 

風間:それが言葉にしたとたんになのかどうか、ってのはかなり難しい問題だと思いますけど…。

 

——そこで議論が分かれましたね、対談の時も。

 

風間:そうっすね…。

 

——言葉の問題なのか、認識の問題なのか、何なんだ?っていうところで答えがでないままでした。でも多分、今の説明で、わかる人はわかったんじゃないでしょうか(笑)。

 

風間:本当ですか? ちょっといまのは伝わった気がしなかったです。

 

——(笑)その伝わらない感じの、もどかしいまま、ライブのノイズのパフォーマンスに入って、ライブの方がみんな真剣に聴いていた気がしますね。

 

風間:ライブの方? (笑)

 

——セットですごくよかったと思います(笑)。

 

風間:止まんなくなってましたもんね。

対談時の書き起こし文章を確認

哲楽ライブの書き起こしテキストを確認する風間さん

 

ノイズ音楽との出会い

 

——風間さんのミュージシャンとしての芸歴は長いんですよね。

 

風間:芸歴…。そうっすね。やっぱり何か、ミュージシャンって言われるとこうちょっと何か、照れくさいっていうか(笑)。

 

——何てお呼びしたらいいですか。

 

風間:いや、もう、何でもないですけどね。

 

——音楽活動をし始めたのはいつぐらいからだったんですか。

 

風間:音楽をやり始めたのは、もう高校生ぐらいから。

 

——入場料を取るようなライブを始めたのもそのぐらいですか。

 

風間:そうですね。

 

——始まったのは福岡でですよね。

 

風間:はい。

 

——その時はお一人で?

 

風間:いや、いま「デラシネ」ってバンドやってるんですけど、デラシネのドラムの奴と、いま美術作家をやってる柴田祐輔って奴がいて、それで三人でやってました。

 

——何か最初のきっかけがあったのですか。

 

風間:いやもう、何か気がついたらやってましたね。他に何もなかったんですよね、僕、多分。わりと全然友達とかいなくて、みんな部活とか、勉強とか夢中になってたりしたんですけど、夢中になるものってものがひとつもなくて、ずっと。で、初めて見つかったことじゃないですかね、多分。

 

——その最初の時も「ノイズ」というジャンルを知って、それをやってみたいと思ったんですか。

 

風間:そうっすね。ノイズって言われると、ノイズの要素もあるけど、ノイズとかパンクとかハードコアとか、初めてそういうものに触れたのは高校生の時に福岡のバンドに「人間」っていうバンドがいるんですけど、そのバンドを見てものすごい衝撃を受けて。山谷のおっさんがステージに上がってるみたいなバンドなんですけど(笑)、とか言ったら怒られるかな? だから、テレビの世界から入ってないんですね。初めて音楽に感動したのがそういうアンダーグラウンドでやってるバンドのライブだったもんで。だから普通テレビの世界から入ってって、だんだんアンダーグラウンドの世界に入ってったりする人が多いみたいですけど、僕、最初からアンダーグラウンドのバンドを見て感動するとこから始まってるから、その辺は、今でも残っているような気がしますね。

 

——デラシネとしての活動を始めたのはいつぐらいからだったんですか?

 

風間:デラシネは2004年だったと思います。

 

——ファーストアルバムデラシネが2006年に出てまして、「Less Than TV」というレーベルです。こちらはアンダーグラウンド専門のレーベルなんですか?

 

風間:専門なのかな? まあそうですね。アンダーグラウンドのレーベルですね。

 

——そのあとに今度は映像で2008年にデラシネのDVDが出まして。またちょっと飛ぶんですが、2011年に「DERACINE×MIKKI&THE MAUSES」というアメリカのアーティストの方と一緒にCDを出されまして。これは日本では「Less Than TV」から出されて、アメリカではロサンゼルスの「TEENAGE TEAR DROPS」というレーベルから出されたと。2004年から始めて、3つの作品を出されてるんですけど、多分ライブの回数の方が多いですよね。

 

風間:そうですね。あんまり何か音源に興味がなくて、ライブの方が楽しいんで、ライブばっかりやってました。

 

——聞いたところによりますと、デラシネのコンセプトが「属さず、壊す」だと。

 

風間:これはもう、あれですね。最初の頃に言ってたやつで。まあ「デラシネ」って言葉がそういう意味ですからね。

 

——フランス語の「根無し草」っていう意味だと思うんですが、何かこれを選んだ意図があったんですか。

 

風間:東京来て結成したんですけど、最初友達もいないし、ライブとか見にいってもみんな楽しそうにしてて、「クソ野郎」って思ってたんでよすね(笑)。「楽しそうにしやがって」みたいな。「ぶっ壊してやるぜ」っていう気持ちでいっぱいでした。

 

——友達が欲しかったっていうことですか。

 

風間:(笑)いやまあ、そうだったのかもしれないですけど。

 

——いまはあんまりこういうコンセプトは全面には打ち出していないんですか? 友達も広がってきて。

 

風間:あえてコンセプトにしなくても、何かもう属してないし、壊れてるような音楽をやってるんで、何かあえてコンセプトとして意識してないって感じですかね。勝手になっちゃってる。

 

音楽ビジネスと政治的表現を考える

自宅のキッチンにあるCDラック

——このDVDの中に、JASRACをちょっと揶揄したような作品があって、音楽っていうものが誰のものなのかっていうのを問うような楽曲だと思うんです。音楽ビジネスはすごく複雑ですよね。音楽って複数の人がいっぺんに聴けるようなもので、自由に発散できるはずのものなのに、いろんな人がそこを「いやこの部分は自分のものだ」、「この部分は自分のものだ」、っていうことを言って、最終的に歌っている人の元に返ってくるものって本当に一部の消費税みたいな金額が返ってくる。そういう仕組みを最近知りまして。その現状を踏まえてJASRACを批判しているデラシネの作品を聴いたときに、風間さんは、「自分のものとしての音楽」というものを意識されているのかなって、想像したんです。

 

風間:いやいや、まあそうっすね。音楽が誰のものかってものすごい難しい問題だと思うんですけど…。でも著作権とかに関して言うと、何かいろいろ細かいことはあると思うんですけど、それを問題したがるのって、それで金儲けをしたいって思っている人たちだけで、作っている方にとっても聴いてる方にとっても別に大した問題じゃないですよね、もうそもそもが。僕らはもう、最初から金儲けするつもりがないから、著作権がどうだとか何だとかって、最初から儲けられないんだから関係ないっていうか。インターネットとかで、誰でもYouTubeとかで音源アップしたりとか、デラシネの映像とかも誰かが携帯でとって勝手に上げたりとかしてますけど、そういうので嫌がるのってやっぱりミュージックビジネスをやりたい人たちですよね。それをされて困るのが。僕らはもう最初から儲けてない、儲けるつもりがないから、何にも困らないっていうか…。

 

——むしろ歓迎ですか? ライブに来てもらって誰かが映像を撮って、それを公開しているのは。

 

風間:まあでも、こんな映像が上げないで欲しいなっていうのはたくさんありますけど。そういうのも何か、言うべきかどうなんだろう、みたいなとかをものすごい考えますけど。著作権ってお金のことを別にして考えたら、残る問題は盗作なのかどうなのか、という話くらいだと思うんですけど、何かまあ盗作って、盗作したら格好悪いだけなんだから、「別に真似したきゃ真似してもいいよ、格好わるいけど」みたいな感じでしかないと思うんですよね。でも最近はそういう政治的なこととかにもあんまり興味がなくなってきてて…。

 

——政治の時事ネタを盛り込んだ楽曲もありますよね。

 

風間:デラシネはわりと政治的な発言はバンバンしていくバンドだったんですけど、急激に何か最近、政治に興味がなくなってきて(笑)。3.11以降にものすごい変わった気がするんですよ。

 

——自分の中で?

 

風間:僕の中でもそうですし、音楽シーンの中でもそうだし。3.11以前って政治的なメッセージを込めるのってちょっと寒いっていうか、あんまり日本でやってる人って少なかったですよね。ヨーロッパとかにツアーにいったりすると、ものすごいみんな政治的な意見を持っていたりして、びっくりしていたんですけど、日本って、アートシーンにしてもミュージックシーンにしても、あんまり政治的な意図を露骨に込めるのって少ないし、何かちょっと寒いみたいな感じの空気があったと思うんですけど、3.11以降にもう急激に何かみんな政治的なコミットメントみないなのをしだして。だからまあ僕は天邪鬼だからこう、みんながしだすと、急にしたくなくなっちゃうっていうか。いまやっても、正しいだけで面白くないような気がするんですよね。もう笑えない、いま政治的なメッセージを込めても笑えないじゃないですか。この原発問題にしろ、9条改正とか、そういうことって、もう笑えないですからね。そういう笑えない真っ正面に正しいことみたいなのをデラシネでやってもしょうがないな、みたいな気になっちゃうっていうか。まあ、音楽以外のプライベートの部分で政治的、社会的なことに参加するのとか、そういうのはまあまだ全然好きなんですけど…。

 

——ああ、そうなんですか。

 

風間:そうですね。選挙とか本気で悩むし、たまにはデモにいったり、東北ボランティアにいったりとか、まあ仕事も介助だし、音楽以外の部分ではそういうのなんかをしたりしますけど。何かこう、音楽ではもうしなくてもいいかなみたいな気になってますね。

 

「どう生きるべきか」と問うことで政治への関心を失う

 

——何で政治に関心がなくなったのか、という点についてはいかがですか。

 

風間:一つにはですね。僕、3.11の後に山谷に引っ越してきて、そのときにちょうど恋愛観とか結婚観で悩んでいたときがあったんですよ。んで、僕はアナキズムに興味があったから、アナキズムの人らって結婚制度に反対していて、自由恋愛制度とか、そういうことを言っている人がいるから、どんなこと書いているのかなって読んでたんですよ。大杉栄とか、エマ・ゴールドマンとかの結婚論を読んだりしてたんですけど。色んなこと書いているんですけど、どっかの部族や他の生物では、家族の形態っていうのが、今の日本みたいにお父さんとお母さんがいて子どもがいて、というものではなくて、村全体の男たち、村全体の女たち、村全体の子ども達っていうのがいて。それが単位になっているから、誰が誰の子どもっていうよりは、皆で育てて、皆で狩りに行って、皆で家のことをやってっていう単位で。そういう部族や生物もいるし。今の日本や欧米の家族形態って、一つの選択肢ではあるけど、それだけではないよと。あと、そもそも女は夫の所有物ではないんだ、とか。現状の離婚率とかを考えても、今の家族のあり方が、本当に社会にとっていいのか、他の家族形態を見直すべきなんじゃないかということが書いてあって。それらのことはすごくわかるし、共感もするんだけど、僕が一番引っかかったのは、彼らが書いているのって、結局どういうシステムにすれば、社会全体にとって良いのかっていう話をしているんですよね。結婚というシステムより、自由恋愛というシステムの方が社会全体にとって良いって話で。ちなみにアナキズムって、社会システム自体をなくそうっていう思想だとよく誤解されてるみたいだけど、実際は社会システムによって個性が殺されてしまわないような新しい社会システムを提案してるんですよ。「アンチシステム」という名前の付いたシステムというか。んで、その本では「子どもの教育にとって結婚システムと自由恋愛システムのどっちの方が良いのか」とか、社会全体みんなにとってどうなのかっていう話をしてるんですけど。でも僕がもともと知りたかったのは、みんなにとってどうなのかではなくて、僕自身にとってどうなのかが知りたかったんですよ。

 

——それは、読む本を間違えちゃった?

 

風間:そうなんですよ。だから、僕はどっかで今まで勘違いしてたんだな、というのにその時初めて気がついて。気がついた後にしてみたら、何でそういうこと勘違いしてたんだろうって思うんですけど。意外とこれって、政治的なコミットメントをしながら活動している人たちって自覚がなかったりするんじゃないかなっていう気がするんですけど。っていうか、そもそも政治的な活動を自分の人生の軸に置いてる人って、「みんなとどう生きるか」と「自分がどう生きるか」が一致してる人たちですよね。でもそれって本当は全然別の話じゃないですか。そこを僕はずっと勘違いしてたんだなっていうのをその時に初めて気がついて。たとえばそこが一致できない人っていると思うんですよ、みんなと共存するためには自分の殺したくない部分を殺さなきゃいけなくなる人って。どんなシステムを作ったって、どんな小規模のコミューンであれ、そこからあぶれちゃう人って必ず出てくるはずで。「仲間を作る」ってことは「仲間はずれを作る」ってことの裏返しだから。デラシネじゃないけど、どこにも属せない、あぶれちゃうヤツって必ずいて、僕は僕自身がそのあぶれちゃう側の人間だっていう自覚がある(笑)。これは頭で考えた思想的にどうこうっていうより、今まで生きてきた体の感覚としてそう思う。やっぱり政治にしろ経済学にしろ哲学にしろ、頭の中で考えられた「人間像」って、リアルな人間、僕という人間からはほど遠いなって思うんですよ。だからもうアナキズムでさえもない(笑)アナキズムよりも個人主義というか。自分の人生をどう生きるかっていう方に興味が出てきちゃって。「みんなとどう生きるか」っていう話は、最低限のところができてたらどうでもいい、って言ったらあれですけど。そっちを向いて走らなくていいんじゃないかな、っていう気になっていて。

 

それは山谷のおっさん達を見ててもそう思うんですよね。山谷の飲んだくれのおっさんたちと、山谷の活動家の人たちってものすごく近いようで実は隔たりがあるように僕は思うんですけど。活動家の人たちってみんな「日雇い労働者に仕事よこせ!」みたいなことを、玉姫公園で演説とかやったり、そういう活動をよくされていて。その活動自体はすごく大切なことだと思うんですけど、当のおっさんたちって、できるだけ仕事しないで酒が飲みたいって思う人たちが多いと思うんですよね。そのギャップというか。「自分が生きて行く上で環境をどう作っていくか」という話とは全然違うところで。「できるだけ何もせずに酒だけ飲みたい」って自分の人生を楽しんでるおっさん達の方に惹かれて行ってて。政治ってやっぱり集団を動かして行くルール作りを頑張るようなもんだから。そこに興味がなくなって行ってるんだと思うんですよね。個を尊重した社会作りを目指す人より、どんな社会であろうと勝手に自分を尊重しちゃってる人の方に興味が行ってるって感じですかね。

 

——風間さんの動画で、ジョージ・ブッシュの映像を使ったライブでYoutubeに上がっていたものを見たんですけど。あれが私は一番好きで。“I love you, I need you”って、ジョージ・ブッシュに話しかけてるんですね。ジョージ・ブッシュのやり方を批判するような楽曲ではあるんですけど、I YouでしかもLoveって、すごいなと思って。ああいう表現も今はしなくなっているということですか。

 

風間:あの頃って、そういう揶揄をするのが楽しかったんですね。面白かったし。だけど今やっても、さっき言った話じゃないですけど、笑えない時代になっていると思うんですよね。「僕的なポイント」っていうのが、今はないというか。僕はやっぱりちょっと笑えないとあれなんですよね。良い音楽にであった時ってちょっと笑っちゃうところがあって。「うわ、なにこれ」みたいな、笑っちゃうくらい異常なのが好きなんですよ。哲学も同じだなって思うんですけど、良い哲学に出会った時って、「何でこんなアホなこと考えてるんだ、この人」みたいなのを、考えてる自分に笑っちゃったりとか。ものすごい真剣に考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しいことを一生懸命考えてるのが、笑えるぐらい素っ頓狂なやつの方が好きですよね。逆に、すごく良いお笑いをやっている芸人がすごく哲学的だなって思うときもあるし。そういう部分がネックなのかもしれないですね、僕の中で。

 

——「なんで政治に関心が向かなくなったのか」ということの理由としては、笑えなくなっている状況と

 

風間:それとやっぱり、「みんなとどう生きて行くか」って話と「自分の人生をどう生きるか」っていうのは基本的には別の話だなって思い始めているってことですね。

 

詞の意味を考える

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キッチンでコーヒーを淹れる風間さん

——デラシネの中で詞を作る人はどなたなんですか?

 

風間:いや、もちろん歌ってる僕が。

 

——その詞を曲にするのもご自身で?

 

風間:そうですね、作曲自体は三人で練りながら作っていますけど。

 

——先に詞ができるんですか?

 

風間:詞と曲は、僕はわりと詞だけずっと書き留めたりして、曲は曲で作って、って感じですかね。後で途中でこの詞をのせようっていうので曲の構成が変わっていったり、そういう感じです。

 

——デラシネで音楽になっているのは、無意味な言葉もありますよね。意味のある日本語の言葉が聴こえるときと、無意味な言葉遊びみたいな音が聴こえるときと、これ英語なのかな?ってちょっと判断がつかないような叫び声と。こういうのはその場でやられてるんですか?

 

風間:そうっすね。最近は無意味な言葉遊びみたいな方が、まあ無意味ってのはどういう意味での無意味なのかっていうところなんだと思うんですけど、メッセージっていう意味での意味ではなくて、詩的な方の意味の方が何か面白いなって最近は思ってます。

 

——韻を踏むみたいな、そういう意味ですか?

 

風間:そういう詩的なものって何か難しいですよね。僕も哲学とかやっててすごく思いますね。言語哲学とかやってると、言語哲学って言葉の意味ってのをものすごく分析していくじゃないですか。で、有意味なものと無意味なものの線引きみたいなのをものすごい頑張ってやってたりするんですけど。有意味な方をがんばって捉えていこうっていう感じの動きですけど、どんどんやればやるほど無意味な方の言葉の意味ってのが気になっていってて。「茶色い戦争ありました」って中原中也の詩があって、「茶色い戦争」って言われても何か意味がわからないじゃないですか、普通の意味では。戦争って物じゃないから色がついてるはずがないし。でも「茶色い戦争ありました」って言われたときに、何かを受け取ってますよね。それが何なのかがさっぱりわかんない。言語哲学みたいなのやればやるほど詩的な言葉使いから受け取る意味っていうのがすごい気になってくる…。

 

哲学との出会い

 

——音楽活動を始めたのが高校生の時で、哲学を学び始めたのが大学一年生だとすると、音楽と哲学に何か関連があったんですか?音楽的なもので生まれた疑問を哲学の問いの形で取り組みたいなって思われたんでしょうか?

 

風間:哲学自体の興味っていうのは、永井先生の『〈子ども〉のための哲学』を、高校を卒業してプラプラしているときに見て、それまで何かその哲学ってのを全然知らなかったんですよ。あの本を読んで「これが哲学なんだ」と思って、ちっちゃい頃にものすごく考えていたことだなと思ったんですね。僕ちなみに、その時にその本読んですぐ千葉大に電話かけて、「すいません、永井先生っていう方、いらっしゃいますか? 話がしてみたいんですけど」みたいな電話かけてるんですけど、事務所のお姉さんに「受験してください」って言われて、でも本当に受験して、ゼミにいくようになったんですけど。

 

——すごいですね。そのプラプラしてたところから猛勉強が始まったんですね。

 

風間:そうっすね。高校時代も何も勉強してなかったんで大変でしたけど。

 

——じゃあ一冊の本がきっかけで、この大学のこの学科のこの永井先生のところで学ぶために勉強を始めたと。

 

風間:ちょと照れくさいですけど。

 

哲学と音楽がリンクし始める

自宅の作業部屋でパソコンに向かう風間コレヒコさん     自宅の作業部屋でパソコンに向かう風間コレヒコさん

自宅の作業部屋でパソコンに向かう風間さん

——その本で受けた衝撃っていうのは、音楽をやっている時の疑問とは直接関係なかったんですか?

 

風間:哲学と音楽に関しては、僕はもうここ最近になるまでは、もうずっと完全に別物として考えていたんですよね。例えば釣り好きのおっさんが、餃子焼くのも得意だったとして、「釣りと餃子の関係は?」と言われても「いやぁ、関係ないでしょ」っていうのと同じぐらい、哲学と音楽どっちも好きだけど、どういう関係があるのかって言われたら何も関係もない気がするな、って思ってたんですけど。ここ最近になって何かものすごいリンクしだして、すごい楽しいですね。

 

——それはいいタイミングだったんですね、私たちが声をかけさせていただいたの。

 

風間:そうかもしれないですね(笑)。

 

——もうちょっと前だったら、「あー、ちょっと関係ないんで」って断られたかもしれない。それで、哲学で学んだことが、音楽の制作の中に影響を与え出したのも最近ですか。

 

風間:そうですね、自分の中で、何かこう、リンクして考えるようになってきたのは最近ですね。もうほんとごく最近って感じで。

 

——デラシネの作品の中ではまだ別々のものだったっていうことですか?

 

風間:あの時は、もうまったくリンクしてなかったと思いますね。

 

——いま、どんな形でリンクしているんでしょう。

 

風間:いろいろありますね。そういうフィードバックとリンクするな、という直接的なリンクもあるんですけど。いまひとりで映像を使ってライブをしていて。哲楽ライブでやったやつとは全然違う形で、それはパソコンを使ってやってるんですよ。パソコンで作る音楽とか映像っていうのが、言語哲学とかとちょっとリンクするなあと思うところがあったりとかしてて。

 

何かもともと音楽とか芸術とかと哲学って、若干同じような変遷をたどっていて。昔の写実主義の頃とかって、物を描いてたじゃないですか。だけど哲学が認識論的転回を迎えたように、芸術の世界でも印象派って、机を描いてるんじゃなくって、机の「見え」を描いているみたいな、そういう転換が一回、同じように起こっているんですよね。形而上学から観念論になったときみたいに、自我の目覚めみたいな、世界そのものへの興味から、それを捉えている自分の方へ興味が一回、哲学でも、芸術や音楽の方でも、同じような転換を起こしてるんですよね。そういうところがすごいびっくりしたというか。まあそういう分野の人にとっては「いまさら何言ってんの?」って感じでしょうけど、僕はものすごくびっくりして。

 

言語哲学、言語論的転回みたいなのと、いまのパソコンが主流になってる、デジタル化された音楽制作みたいなのって、ものすごいリンクしてるような気がして。パソコンって結局0と1ですよね。0と1で全部作られていて。つまりその、0と1っていう言語で音楽を表そうっていうのがやっぱり元にあるんですよね。ちょっとややこしい話ですけど、もともと音楽の同一性とかって、例えば永井先生がこの前「終わらない歌」を歌ってましたけど、永井先生が歌う「終わらない歌」とブルーハーツが歌う「終わらない歌」は同じ歌である、同じ曲であるっていう同一性があるじゃないですか。その同一性ってどこに根拠があるのかっていったら、その楽譜にあって。

 

楽譜って、テンポと、拍と、メロディーやハーモニーっていう要素で、作られてるじゃないですか。あれって西洋音楽の規準なんですけど、それが曲の同一性の規準になっているんですよね。楽譜って言語化みたいな、音楽を記号に置き直していくっていう言語化の作業だと思うんですけど、それがどこまでできるのかっていうのが、パソコンでつくる音楽制作の中でものすごいとこまで進んでて。例えば僕がいまこう何かリズム叩いたとして、さをりさんも同じ譜面のリズムを叩いたとして、でもグルーヴみたいなのがちょっと違うじゃないですか。僕が叩くのとさをりさんが叩くのでは。同じ譜面だったとしても。

 

でもそのグルーヴの違いっていうのが、今までは何かはっきりしない、心の中にあるような何かもやもやしたものだったと思うんですけど、それがその、いまもうパソコンの中で記号化できるようになっていて、僕が叩いたリズムをパソコンで一回読み取って、「風間のグルーヴの特徴」っていうのを抽出できるようになっているんですよ。一回「風間のグルーヴ」っていうのを抽出したら、別のリズムを風間のグルーヴっぽくしてくれっていうことをパソコンの中で再現できたりとかするんですよね。だから、今まで譜面に表すことができなかった、何かもやもやっとしていたようなものたちを0と1の世界の中で表現できるようになってきているんですよね。

 

だからデジタル化していく作業って、心の中にあるもやもやってしたものとかを、言語の世界の中に置き換えていく作業だと思うんですけど、言語哲学もまさにそれをやっているじゃないですか。いままで「言葉の意味って何なの?」って聞かれたら、ほとんどの人は「心の中にあるイメージだ」みたいな、「「机」って言葉の意味って何?」って言われたら「何か机のイメージみたいなもの、何か心の中にあるもやもやしたものだ」って思ってたと思うんですけど、それをどうやって数学的に表していくか、集合論とかなんだかんだ代数的な道具を使って、それを言葉の意味を心の中から出して、記号、数学の世界の中で分析していく作業を一生懸命やっているわけですよね。あれって方向性としてはものすごく似てるなあと思うんですよね。だから音楽用語の方から言うなら、言語分析哲学って言葉の意味のデジタル化作業ですよね。

 

——昔だったら、サロンのような所に、哲学の人と、音楽の人と、絵画の人が、「今こういうのが自分たちの世界では良い感じになっているんだよ」とその場で共有して、持ち帰って活かすという感じだったと思うんですが、それを風間さんは一人でされているというのがすごいですよね。

 

風間:いやいや、「一人で」ってことはないですけど。そういうのを考えたりすると、そこからの方向性や自分のやっていることがものすごく明確になって。今話したみたいな、心の中にあるあやふやだったものを、どんどん記号化して行く作業の中に、そいういう流れの中にいるということが何となくわかってくると、だったら、アナログなほうが気になってくるっていうか(笑)

 

——「だったら」っていうのがいいですね(笑)

 

風間:じゃあ「それでできないことは何だろう」ということが気になる。僕はやっぱり0と1で置き換えられないものが気になっていて。デラシネも、機械をいじってるヤツが一人いて、あとは生で演奏しているヤツが二人いる。僕がいま一人でやっている「パケ」は、パソコンで映像と音楽を流していて、完全にパソコンの中で作っているやつなんですけど。そのパケっていうプロジェクトのなかで唯一アナログなのが、僕の体だなって思うんですよ。僕の身体を使って、演奏している限り、僕の身体っていうアナログ装置を通って時間が作られている。完全にパソコンの中で自動演奏させている訳ではなくて、僕の押すタイミングで鳴ってるっていうのが、僕の体っていうアナログ装置を使っているっていうのがすごく肝だなと思って。

 

——その時に、CDなどの電子媒体に焼いたものと、ライブでの演奏で何か違いがあると思われますか。

 

風間:僕はライブが好きですね。それはもともとライブを見たのが始まりだっていうのがあると思うんですけど、ライブ見るのが好きで。

 

——哲学に影響を受けて、哲学的なアイディアを作品化していっているというよりは、哲学で世界の潮流を把握して、そっちではない、自分が本来求めていた方向を細く明確にしていっているという感じがしますね。

 

風間:そうかもしれないですね。哲学をやっていることで、自分のやっていることが明確になってきて、だったらこうしようって。

 

——やっぱり、「だったら」っていうのがキーワードですね(笑)

 

風間:そうですね。あまのじゃくなところが(笑)

 

——「みんな友達と楽しそうにやっているんだったら」で最初始りましたけど、「今、哲学で言語哲学が流行っているんだったら、俺はノイズで」と。

 

風間:ノイズまきちらしちゃるぞと(笑)。僕にとってノイズって、拍子とか和音とか、あらゆる概念的な規定を拒むもののことなんですよ。だから、永井先生との対談とリンクさせて言うなら、ノイズも「ノイズ」っていう概念で捉えた瞬間に本当はノイズではなくなっちゃってて。概念的な規定を拒むものこそがノイズなんだから。でも、逆に、本当は何でもノイズなんだとも言えて。たとえば、今耳を澄ませて、換気扇の回る音が聞こえてるとして、そこから「換気扇の音」という意味を剥奪して聴くならノイズになる。ギターの音も、「ギター」とか「ミの音」とか「3拍子」とかっていう意味を剥奪して聴くならノイズになる。そういう意味では、僕の捉え方のノイズは、ヴィパッサナー瞑想とも近いところがある気がするんですよ。はじめて瞑想した時に、高校生のころによくこうやってノイズを聴いてたなって思い出したりしてて。でも、音楽(ノイズ)が哲学や瞑想と違うところは、その概念的な規定を取っ払った生のそれを、他者に向かって語らずに投げつけることができるってところですかね。これは音楽の特権なんじゃないかなって思いますね。

 

——そういう意味で冒頭のライブでの快感があったということなんですかね。

 

風間:そうですね。

 

障害者介助の仕事を始めてから

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風間さん特製エスプレッソ

——最後に、今のお仕事についてもお聴きしたくて。障害者介助のお仕事をされているんですけど、いつもインタビューで何かと何かの関係というのを聴きたくなってしまうんですが、そのお仕事と音楽って…。すごく首かしげてらっしゃいますね、今(笑)。

 

風間:いや〜。

 

——介助のお仕事を選んだ時のことを教えて頂けますか。

 

風間:障害者の介助に関しては、僕、仕事っていうものが嫌いで、全然仕事というものができなかったんですよ。この仕事をするまでは、2、3年くらいずっと無職で。何やっても仕事になったとたんに嫌になっちゃう。駄目だったんですよね。

 

——大学を卒業されてすぐはどういうお仕事されていたんですか。

 

風間:ライブハウスで働いてみたりとか。

 

——そういう仕事でも退屈になっちゃいますか。

 

風間:仕事になるとやっぱり「行くのやだなぁ」とか、「明日もかぁ…」みたいな気持ちになってたんですけど、この仕事に関してはそういうのが全然ないんですよ。

 

——良かったですね、その出会い!

 

風間:そうですね。それまでは、どんな仕事をやっても憂鬱だったし、「あと何時間で終るんだろう、まだ30分しかたってねえや」みたいな感じでしか…。仕事になると何でも嫌だったんですけど、この仕事に関してはそういうのが全然なくて。

 

——介助の仕事を始めて今、何年目ですか?

 

風間:今7年目ぐらいやってるのかな。

 

——すごい。今までのお仕事遍歴の中では最長記録ですか。

 

風間:そうですね。こんなに長く続いたのはこの仕事ぐらいですね。

 

——何が魅力なんでしょう。

 

風間:何が魅力なのかな…。仕事っていっても、障害者と一緒に酒飲んで騒いでるだけなんですけど。

 

—所属している事務所はあるんですか。

 

風間:一応、派遣事業所みたいなのがあって。そこから行ってるんですけど。入ってる人はみんな脳性まひで。脳性まひの人って、何割かは正確には知らないんですけど、重度の人たちは施設や実家でずっと過ごされる人たちがほとんどみたいなんです。でも僕が入ってる人たちは、そういう施設で一生過ごすのは嫌だって言って、酒も飲みたいし、煙草も吸いたいし、女の子とも遊びたいし。施設にいたらそういうことができないから、施設を出て自分でアパート借りて自立生活するぞって言って、アパートで生活している人たちなんですけど。重い人では眉毛しか動かせない人もいて。そういう人たちが自分でアパート借りて、24時間誰か一人介助者をつけて、自分で一人で生活しているんですよね。それで僕は行っている。僕の仕事は彼らと一緒に酒を飲んで、煙草を吸って、女の子と遊ぶことというところがあって。

 

——気が合うところがあるんですか。施設から抜け出してそういうところで自由にやりたいというところで。

 

風間:そうですね。いつもは彼らのことを馬鹿だのハゲだの言ってますけど。やっぱり心の底では尊敬してますね。すごいなぁと思うし。なかなかできることではないと思うんですよね。この仕事をやっていると、色んな人に「偉いですね」みたいなことを言われるんです。呑み屋で障害者の人と飲んでても、「ご苦労ですね〜」っておばちゃんに声かけられたりして。「頑張ってね」って言われたりするんですけど。それはちょっとそんな感じでもないんだけどな、って。嬉しいけど。やっぱり偉くはない。「偉い」って感じで言われるとものすごい違和感があって。僕が入っている人で「俺は障害を利用して生きて行くんだ」という人がいるんですね。んで、僕は「障害を利用して生きてるその障害者を利用して生きている」っていうか。楽しく生きてるだけですよね、一緒に。そう、彼らの凄いところは障害者であることを楽しんでるところですね。

 

——ライブハウスの仕事をして「毎日つまんないな」と思っていた時から介助の仕事を始めて、自分の中で変わったところはありますか。

 

風間:そうですね…。

 

——時間を守れるようになったとか。

 

風間:時間はもう相変わらず遅刻ばっかりしてて。遅刻すると喜ぶ障害者がいるんで、わざと遅刻しているみたいなところがあったりなかったりするんですけど。やっぱり価値観みたいなのがすごく違うんですよね。それはすごく楽しいなと思いますね。海外のバンドと一緒にツアー回ったりする時があるんですけど、そういう時に感じる価値観の違いみたいなのと、同じような価値観の違いを感じるときがあって。24時間誰かがずっと一緒に居るっていう、僕らとは全然違う生活環境で生きているから。その価値観の違いがものすごく刺激になるというか。

 

この仕事していて一番衝撃だったのが、あんまり頑張っちゃだめなんですよ。頑張るっていうのが、普通仕事ってこうした方がいい、ああした方がいいっていう自分が良いと思うことをどんどん進んでやって行く方がいいじゃないですか。

 

——目的を達成するというのはありますね。

 

風間:そうですね。この仕事って、障害者の人が「赤信号渡りたい」って言ったら、赤信号渡らせてあげるのが僕の仕事で、こんなに酒飲んだら体壊しちゃうだろうなと思っても、それを飲ませてあげるのが僕の仕事だと思っているんですよ。今ナンパしても、絶対引っかかんないし、寒いだろうなって思っても、ナンパするのが僕の仕事だし。単純に二つの道があって、こっちの道の方が近くて合理的なんだけど、障害者が回り道をしたいって言ったら、回り道を一緒にしてあげるのが仕事で。「こっちの方がいいですよ」っていう僕の意志みたいなのは、極力入れないほうがいいんですよね。だから酒飲んで体壊そうが本人の人生だし、赤信号渡って痛い目に遭っても本人のせいだし。痛い目に遭ったりすることって言うのも、人生にとって面白みというか。痛い目に遭えない人生って面白くないじゃないですか。ずっと誰かが横にいて、赤信号無視しちゃだめですよとか、お酒飲んだら体壊しますよとか、歯を磨かないと駄目ですよ、とかずうっと誰かが自分の行動を正しい方向に訂正していくって、ものすごく鬱陶しいと思うんですよ。僕の仕事はそういう仕事ではなくて。彼らが間違ったことを望んでいるときは、一緒に間違ってあげるのが仕事だと思っていて。そこがやっぱり普通の仕事とは全然違うなって思うんですよ。結果を目指してないっていうか。どんな仕事でも人間関係ってついてまわるものですけど、この仕事って活動内容よりも彼らとどういう関係の中でそれをやったのかってところが一番大事で、もうそれだけなんですよ。実際に何をやったのか、結果としてどうなったのかってところはどうでもいいんです。

 

——このままずっと録音回し続けたいんですが…(笑)

 

風間:すみません、長くなって。

 

——2015年1月8日がどんどん伸びていく感じがしますね。「今年の抱負は」とか、「これからどこを目指しますか」という質問をインタビューでしがちなんですが、まったくその質問が意味がないなということを、風間さんとお話していると思います。「一緒に間違いを犯してあげる」仕事をなさっていて、勉強した哲学でそっちじゃない方を見定め、そうして進んでいるというよりは、どこか帰っているというか。原点をずっと求めているという感じなのでしょうか。

 

風間:どうなんだろう。あんまり自分のことを客観的に見ないでいいかなと思っていますね。

 

——(笑)

 

風間:これって哲学と音楽の違いだなって思うんですけど、哲学ってどんだけ引いて客観的に見れるかというところが勝負だったりするじゃないですか。誰かの意見に対して一歩引いて、それはどういう意味なんだろうって考えて、批判して、その自分の批判がどういう立場から言ってるんだろうと、もう一回自分で引いて。どんどん引いていってメタ的な視点で捉えていくっていう作業をしてると思うんですけど。音楽って、自分を引いて客観的に捉えるっていうことをしないほうがいいと思うんですよ。音楽をやってる時って。「引くな引くな」、「押しちゃえ押しちゃえ」、「間違ってていいから進んじゃえよ」みたいな感じの方が面白いことができるっていうか。そこが違いかなって思いますね。

 

——その風間さんの身体を通った音楽を体験できる情報などもお伝えしたいと思います。

 

風間:一人でやっているやつはここ最近始めたんで、ボロボロ入ってこれからって感じですけど、デラシネは2015年3月13日に東京で自分らの企画[iii]をするんで。

 

——これは体験しないと難しいですよね。「風間さんのライブはこんな感じです」って言ったところでやっぱり伝わらないものがあると思いますし。

 

風間:僕らの企画なんで、僕ら以外のバンドもものごく良いバンドばかり呼んでますんで、是非遊びにいらしてください。

 

——今日は色んなお話をお聴かせ頂いて、ありがとうございました。

 

風間:はい、ありがとうございます。

 

インタビュー・写真/田中さをり

[i] 2014年11月23日に東京都目黒区のジャズ喫茶、珈琲美学で開催されたイベント。紀々さん、永井均さん、風間コレヒコさんが共演した。当日の様子はこちらから:風間コレヒコによるフィードバック・ノイズで哲楽ライブの幕が閉じる

[ii] 永井均さんがこれまで受けた批判のなかで最も有効なものとして、学生時代の風間さんの質問の内容を解説したエッセイ。「風間くんの「質問=批判」と『私・今・そして神』」として、『講談社現代新書50周年』に収録され、PDFが公開されている。http://gendai-shinsho.jp/content/files/anniversary_50th.pdf

[iii]デラシネ企画のライブ「MISTAKE SHOW vol.24」は、2015年3月13日に新大久保アースダムにて開催される。開場18時半、開演19時から。チケットの購入やお問い合わせは直接、ライブハウスの新大久保アースダムにお願いします。
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