読者の皆さんは、どのような年の瀬をお過ごしだろうか。大晦日から元日にかけて、少しそわそわして、「今年が終わってしまう」、「来年はどんな年かな」と考えておいでだろうか。ところで、この大晦日の「そわそわ」は、何歳くらいから始まったのか、その記憶をはっきりと思い出せる、そんな人はおいでだろうか。私の周囲の親戚や友人の子ども達を見ていても、小学校に上がる前の子ども達は、せわしなく動き回る大人達を気にすることなく、大晦日をいつもと変わりのない日を過ごしているように見える。年が変わるどころか、昨日が明日に変わるという考えさえもないから当然といえば当然。ある子どもは、祝日のことを「今日はお休みにしましょうの日」と言い、元日のことを「明けましておめでとう、という日」と言う。ソウイウコトにする日を何度も何度も経験するうちに、「そわそわ」は体の内側から始まるのかもしれない。しかし、はて、それは一体いつから始まったのだろう。
この「そわそわ」の大晦日、今年一年の読書を振り返った。ご恵贈頂いた本は、ランキングには入れられなかったものの、自分で買い求めた本の中からベスト10を選出した。
共同通信社の編集によるこの本は、新聞に文章を掲載するときの、さまざまな表記法に関する辞書。算用数字と漢数字の使い分け、日時の書き方、動物の数え方、人名の表記法、さらには差別語の一覧もある。哲楽用に自分で書いた記事は厳密なチェックが追いつかないことも多いけれど、他の人の文章を校正する時には重宝している。来年は、哲楽用に書いた文章をまとめて刊行予定なので、この辞書を改めて駆使したい。
カレル・チャペックによるこの童話集は、西千葉のムーンライトブックストアさんで5月に開催された「カレル・チャペックを読む会」の宿題として出さた一冊。大学で哲学を専攻していたチャペックが生きたのは、第一次世界大戦が勃発し、ナチスによる占領が行われた激動の時代。それでも児童文学や戯曲を通じて「アジテーションではなく人に考えるきっかけを与えた」という翻訳家の木村有子さんの解説が、すっと腑に落ちた。この本に励まされ、来年は哲楽も、子どものための歌を作る試みを始めることに。「アジテーションではなく子どもに考えるきっかけを与える」そんな歌になればと思う。
7月に朝日カルチャーセンター新宿「坐禅を哲学するー内山興正の哲学を手掛かりに」と題して、藤田一照師と永井均氏の対談が行われた。本書はその課題書だった。対談は、内山老師の「進みとやすらい」・「思いの手放し」・「自己ぎりの自己」の3点に沿って進められ、他に類のない「自己ぎりの自己」と、ツタでつながるカボチャの寓話との一見矛盾するような自己の在り方について考察が深められた。今年は、取材のために初めて藤田師が茅山荘で主催する坐禅会に参加。坐禅中の沈黙の時間に、体の重心や、思い浮かんでくる雑念をどうすればいいのか迷いに迷った。本書を読み返しながら、毎日数分、試している。効果は、少し怒りの感情を制御できるようになったこと…だと信じたい。
フランスでベストセラーになった本書は、『虚無の信仰 西欧はなぜ仏教を怖れたか』という仏教解釈についての著書で知られる哲学者、ロジェ=ポル・ドロワによるもの。ル・モンド紙の書評を担当し、フランス国立科学センターの研究員である売れっ子哲学者が、哲学的な気分になるための行動一覧を101題綴った。階段を下り続けることで、厳粛な気分になるなど、日常の暮らしのなかで簡単に試せるものばかり。各お題には、必要な時間や場所まで明記されている。本の内容というよりも、企画のうまさに唸ってしまった一冊。哲学が高校で必修のフランスでは、哲学を一般に親しみやすくする努力が、こんな形で進められているのだ。
ドイツ人哲学者のオイゲン・ヘリゲルは、1924(大正13)年から5年間、東北帝国大学の教壇に立っていたときに、阿波研造範士に弓道を習っていた。ドイツからきた哲学者と禅の精神で弓道を教えていた師匠、当初は全く話が噛み合ない二人だったが、結局ヘリゲルは、めきめき腕を上げ、帰国間際に弓道五段の免状を授与される。帰国後ドイツで講演をしたときの記録が本書。ここで書かれていることは、日本の禅の精神に対する賛美なので、ともすれば、日本人読者である我々は、自文化を誉められて自己陶酔に陥るかもしれない。しかし話は逆で、ヘリゲルによって、禅に対する「手法」や「心構え」が共有可能なものとして、一段進んだのではないだろうか。ヘリゲルと阿波研造との問答こそが、それを実現したように思えるので、この問答の一部を引用しよう。ヘリゲル頑張れ!と思わず応援してしまうのは、私だけではないはずだ。
「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのであるそれではこれ以上進むはずはない。」——こう言って先生は私を戒めた。それに対して私が「少なくとも無心になるつもりにならなければならないでしょう。さもなければ無心ということがどうして起こるのか、私には分からないのですから」と答えると、先生は途方に暮れて、答える術を知らなかった。
うるさい日本の私 (日経ビジネス人文庫)では、町中の交通機関やデパートで流れる音の氾濫を厳しく批判した著者。本書でその眼差しが向けられたのは、乱立する「○○禁止」の看板だ。録音され何度も再生される音も、交通安全を呼びかけるまさにステレオタイプの看板も、社会が一様の価値を押しつけ、対話する行為そのものを殺しているとする著者の指摘は、教育現場の中で、教師に質問することができない生徒の心理についての分析へと展開していく。子どもの哲学教育にたずさわる人なら、本書から得られることは多いはずだ。しかし、読後にひとつの疑問がわいたことも確かだ。問うことが素晴らしいとする価値を最優先で教え込まれた社会は、どんな問題が生じるうるのだろうか。上手く問うことができる者と、問うことが苦手な者との格差が広がり、二者間の従属関係はすぐには解消できないものになるのではないだろうか。ヘリゲルやドロワが禅や仏教に望みを見いだそうとしたのは、もしかしたら、その帰結だったのではないだろうか。さて、それならば、子ども達にどういう言葉遣いで接したものか。本書で大きな宿題を与えられた。
藤田一照師の坐禅会で著者にお会いして買い求めた本書、健康本のひとつなので、一概にすべての人に効果があるとは言い切れないものの、少なくとも私には効き目があった。口をぱくぱくする体操の前に、アイスの棒を噛み締める課題があったので試してみると、くっきりと刻印された歯形が。奥歯の緊張具合を試すこの課題で、長年の首と肩の痛みの原因が目に見えてわかったのだ。「パソコン作業している人は疲れたら休憩しましょう」とよく言われるが、どの時点で自分が疲れ始めたのか、その瞬間を自覚するのは難しく、それが症状の悪化につながることも少なくない。奥歯を噛み締めていないか、簡単なチェックで、少し楽になることができた。猫の動作を観察していると、家中で一番快適な場所を見つけてくつろぎ、同じ姿勢でいることで血流が滞った場所を上手に解消するストレッチをしていることがわかる。来年は、奥歯の緊張を自覚しつつ、猫のように生きよう、そう思えた一冊。
哲楽ライブの打ち合わせで、風間コレヒコ氏の住む山谷を訪問したときに、ドヤ街として栄えたこの街の魅力が忘れられず、手に取った一冊。89〜90年に山谷を訪れ、日雇労働もこなした文化人類学者、エドワード・ファウラーによる本書は、街の人々とのインタビューがもとになっている。インタビューと言っても、著者は録音機もノートももたず、ただ人々と言葉を交わし、それを記憶からたぐり寄せ、著者の母国語である英語の本としてまとめたのだ。もとのインタビューは日本語で行われ、原著は英語としてまとめられ、さらにそれを川島めぐみ氏が英日翻訳したのが本書。インタビューと翻訳という二重のフィルターを通しているにもかかわらず、山谷に生きる人々の息づかい、汗、痛み、望み、そしてまるごとの命といえるものが、そのまま伝わってくる気がするから不思議だ。本書が気になった人は、まず山谷を訪れたいと思うかも知れない。身内もなく老いていく人々のなかには、観察されることに敏感な人も多く、その傷つきやすさに配慮するために、様々なしきたりがある飲食店も多い。例えば、「店内撮影禁止」などだ。なぜそうなのかを知るためにも、山谷を訪れる前に、やはり本書を先に読んでみて欲しい。何も知らずに見物気分で行って街の写真を撮ってしまったことを、私は少し後悔した。
中山元氏による光文社の新訳版が2006年に出ていてKindleでも読めるようになった。カント研究者ならば大胆な意訳に意義を唱えたくなるかも知れないが、一般読者ならば、この読みやすさに一度触れてみて欲しい。難解なカントのイメージが一新されるはずだ。特にぐっときた箇所を引用したい。「哲学者という階級を消滅させず」という箇所が何とも素晴らしい。
「国王が哲学者となったり、哲学者が王となったりするのは、期待すべきことでも、望ましいことでもない。権力を所有すると、理性の自由な判断の行使が損なわれるのは避けられないことだからだ。しかし王者が、またはみずから平等な原則のもとにしたがう王者的な民族が、哲学者という階級を消滅させず、また沈黙させずに、公に議論するのを許すことは、それぞれの職務を明確にするためにも不可欠のことなのである。哲学者という階級は、徒党を組んだり、秘密結社を設立したりすることができない性格をそなえているので、プロパガンダによる誹謗の疑いをかける必要はないのである。」
本書は、『非現実の王国で』という世界最長の小説で知られるアウトサイダー・アーティスト、ヘンリー・ダーガー(1892-1973)が暮らした部屋の写真集だ。ダーガーは、知的障害者施設を出て、19歳で小説と挿絵を書き始め、執筆は60年もの間、たった一人で続けたと言われている。人生の後半の40年を暮らした彼のアパートの大家さんによって、小説の原稿と挿絵が発見され、世に出されることになった。この写真集は、キュレーターの小出由起子氏と写真家の都築響一氏が立ち上げた個人出版社から2007年に出版され、古本市場では高値がついていた。今回、都築氏自らが、Amazonから個人出品すると知り、買い求めた。実はまだ、本書を手にしていない。けれど、ダーガーが空想と現実を行き来しながら40年間暮らした部屋というだけでも、それを都築氏が形にしたというだけでも、今年一番の本になることは疑い得ない。自分へのクリスマスプレゼントだった。哲楽でも、年が明けたら、この部屋を彷彿とさせる場所で、インタビューが1件決まっている。この写真集を眺めながら、予行演習をしたい。
最後に、今年一年、哲楽を応援頂いた皆様に心から感謝申し上げたい。
皆様の新しい年も、どうぞ充実した年になりますように!