根本和徳さんは、お薦めの本を手話で紹介する活動をしている。お会いしたのはこの日が2度目だった。1度目は、3週間ほど前の夜のピザ屋。根本さんの手話動画がご縁で、お会いすることになった。アップテンポなBGMが流れるピザ屋の店内で、根本さんが最近読んだ本のイメージを手話を通して見ていた。音楽と店内の声で時折こちらの思考が遮られつつも、恐らくきっと、根本さんは哲学の人なのだと強く感じられた。後日インタビューのお願いをすると、根本さんは千葉市稲毛区にある編集部まで足を運んでくださった。年末の寒空の下、駅からの道すがら、お互いの家族の話をして歩いた。
どんな人とどんな振る舞いの中で日々暮らしているのか、手話だと自然に話ができるから不思議だ。私は長く哲学業界の人々と仕事をしてきたけれど、両親がどんな人々なのかはお互いによく知らない。お会いして2度目の根本さんとは、とくにお互いの母親がどんな話し方をする人なのか、もうよく知っている。手話は身体的な結びつきが強い言語だからかもしれない。コートのポケットに手を入れたり出したりして話しながら編集部に着くと、角に配置した長椅子に座り、コーヒーで一息入れ、斜めに向かい合った。室内の白熱灯の光と、北向の窓から入る冬の光に、私たちは照らされていた。
インタビューとその後の話を少し振り返ってみよう。根本さんは福島県出身。ろう者の両親のもとに生まれ、ろう学校を卒業した後、大学進学を機に地元を離れ、今は特別支援学校の教諭として働いている。もともと本好きで、ちょっとした隙間時間に読書を続けてきた。一冊をざっと読み通して思い浮かんだ情景をしばらく考えて、頭の中のイメージが構成されるのを待ち、引っ掛かったら再読し、イメージが完成したら読書を終えるという独自のスタイルだ。
好きな本を手話で発信しようと思ったのは、コロナ禍がきっかけだった。自宅時間が増え、何かできないか考えていたところ、近所のシェア型書店「せんぱくBookbase」で自由に本を置ける書棚を見つけた。リンゴ箱の本棚に「ネギ書店」と銘打って、手話関連の選書を並べることに決めた。ただ並べるだけでは印象が薄いだろうと考えた根本さんは、SNSで発信しようと思ったのだ。最初の手話動画をTwitterに掲載すると瞬く間に広がった。
手話の表現力に影響を与えた人について尋ねると、「今まで出会った人すべて」だと根本さんは笑う。幼少期には、両親の友人たちが家にひっきりなしに訪ねてきていた。ろう者だけでなく、手話サークルに通う聴者もいれば、年齢も様々。手話表現の違いを自然に受け止めて吸収したという。学校で聴者の教師が使っていた日本語に近い手話は、当時「日本語対応手話」という呼び名は知らなかったものの、家で使う手話の形と違うことはわかっていた。社会人になった今、哲学的な話になると、両親と使っていた手話の方が自由度が高いと話す。日本語の場合は、その先の展開がある程度決められている感じがするけれど、両親と使っていた手話の場合は、何もないところで自由に思考を創造できるという。
最近、友人たちとリモート対話する機会が増えてきた根本さんは、そこで繰り広げられる対話を記録に残したいと考えている。多角的に対象をとらえて、本質に迫ろうとする哲学的な議論のスタイルがそこにあるからだ。少子化の波はろう者たちのコミュニティにも押し寄せている。手話が消滅の危機に瀕する将来を見据え、ろう者たちが社会の中でどうあるべきなのか、友人たちと議論が続いている。
根本さんには、これから個として探求してみたい問いもある。例えば「花が美しい」という言葉に対して、喚起される情景は多様だ。一人で歩いているときに道の傍に一輪の花を見かけたのか、風に揺れるたくさんの花々を大事な人たちと一緒に見たのか。そのイメージを手話で分析してみたいのだという。
聞こえる人々の場合、「花が美しい」という文章を特定の情景と結びつける人もいれば、文字だけで主語と述語の関係が明示する意味として理解する人もいるかもしれない。フランスの哲学者ジャック・デリダ(1930〜2004年)は、誰かの目の前に現れる特定の情景とは独立のものとして、「エクリチュール(書き言葉)」を定義していた。
一方で根本さんは、手話で描写される「花が美しい」は、花を見ている人の視点とともに、「美しい」と感じられた情景をありありと浮かび上がらせることができると考えている。「花が美しい」という文で記録できるのは、せいぜいその花が単数なのか複数なのかの違いだけで、その花がどんな場所に咲いていたのか、それを美しいと感じた主体が誰と一緒にどんな状況で見たのか、そうしたことは分からない。根本さんは、この美の観点に手話で迫ろうとしている。
手話の場合、例えば「紫陽花」という花の名前を知らなくても、雨が降っている、カタツムリがいる、小さな花弁がたくさんついた花が道路脇にひっそり咲いている……という情景描写で、「あの花」をはっきりと相手に伝えることができる。物の名前が重要視される音声言語では、その物が存在していた空間の細かい描写は省略されることが多い。一方の手話では、空間の配置は重要視されるけれど、個々の物については、細かい描写が省略されることが多いそうだ。
風景や体験を言語化する過程で重要視される要素と、省略されがちな要素が、音声と手話では異なる。音声言語話者として社会生活を送っている私は、人や物の名前が喉元に詰まって苛立つことがしばしばあり、手話の伝達力の方が眩しく映る。
ただ、こうした手話での哲学対話の場に聴者がどう参入できるかは、慎重に考えなければいけない問題だという。通訳を介さず、手話の形のまま認識を共有できなければ、結局文字や音声中心の哲学に置き換わってしまうだろうから。根本さんたちの哲学探究は、始まったばかり。だからこそ、大事な場なのだ。
インタビュー収録後、編集のために映像を繰り返し確認していると、近しい人々を形容する「僕のまわりの」という根本さんの手話が、身体に添うように反時計回りに表現されているのに気がついた。日本語では「身近な」とか「身内の」という形容詞とニュアンスが近いかもしれない。根本さんの「僕のまわりの」には、心を通わせる家族や仲間の存在が映し出されているように見えた。ぜひ映像を振り返って、この言葉を見つけてみて欲しい。きっとその場所が、哲学を始める原点なのだろうから。
2021年12月29日インタビュー
◎文・映像字幕制作 / 田中さをり
編集者、文筆家。広報の仕事に従事しながら、哲学や科学技術をテーマに執筆編集活動を行う。哲楽編集人。難聴者の兄と幼少期にホームサインを使っていたが、手話は大学時代に習い始めた。近著に『時間の解体新書――手話と産みの空間ではじめる』(明石書店)、インタビュー本に『哲学者に会いにゆこう』(ナカニシヤ出版)がある。
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