防災哲学カフェその2

2013年12月29日

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編集人・田中さをり
千葉大学にて哲学、 倫理学、情報科学を学ぶ。アメリカのコネチカット大学で訪問研究員として二年間過ごした後、日本の複数の大学や企業でテクニカル・スタッフとして勤務する。 日米でのアカデミックな経験を通して、学術分野での広報と質の高い文章作成の重要性を実感する。現在、コピーライティング、web 制作、雑誌編集、ポドキャスティング、翻訳マネジメントなどに従事しながら、学術広報活動を続けている。

地図の上で珈琲ブレイク

地図の上で珈琲ブレイク

珈琲ブレイクをはさんで後半の哲学カフェでは、「想定外」という言葉をめぐる哲学対話を行いました。

「想定外という言葉が入った例文をあげられますか?」のこちらからの問いかけに、次の3つの例文が上がりました。

(1)「インターネットのシステムがダウンした理由は想定外だった」
(2)「15メートルの津波が起こったのは想定外だった」
(3)「こんな問答が行われるとは想定外だった」

続けて「これらの文章の想定外に、他の言葉を当てはめるとしたら?」という問いには、「思いもつかなかった」という言葉が上げられ、例文を一つずつ検証してみました。(2)と(3)はこの言い換えでも問題なく理解できたものの、(1)のケースでは、「思いもつかないものだった」と文法上の言い換えが必要でした。

「これらの文章で他に共通していることは?」の問いには、「できなかったことに対する言い訳」という答えがあがりました。そこで、東日本大震災後の原子力発電所の事故では、東京電力の責任を逃れるための言葉として「想定外」という言葉が上げられた事例から、免責の意味が込められていることを全員で確認しました。さらに関連して「予期できたかどうか」「不可抗力だったかどうか」を問題にしているという答えもあがりました。

「予期できるかどうかは、個人の力に依存していると思うか?」との問いには、個人の力の構成要素として、「経験」、「想像力」、「共感力」、「知識」、「環境」という言葉とその事例が挙げられました。「想像力」という言葉を上げた参加者にその理由を問うと、「万一の時に他人のために自分が何をしてあげられるか考えたい気持ちが常にある」という斬新な答えがあがり、他の参加者からの「ええ〜!」という感嘆の声を呼びました。

「東電の場合、利他的な行為を考えられる個人がいたら、想定外ではなかったか?」との問いには、「別の政治的な要因で想定外と言わざるをえない状況だった」との答えが。

最後に、「これから想定外という言葉を新聞やテレビで見聞きした時に、行為自体の責任がいつでも誰でもないと言えるかどうかを疑って欲しい」と締めくくりました。

個人の力の構成要素を上げる際には、似たキーワードがあり、互いに「そうそう、それってこういうことだよね」と頷き合うシーンもあったものの、その理由を深く問うと、その人独自の道徳原理が垣間見えたのが、哲学対話の特徴がキラリと光った瞬間でした。

今日本の哲学者たちが教育現場で「哲学教育」を広げようと奮闘しています。まさにこの光に取り憑かれたのか!と初めて心から共感できたのでした。さらに「次の哲学カフェはいつあるんですか?」との嬉しい声も。防災哲学カフェは、哲楽編集部としても、今後長く定例化させたい会になりました。

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