模倣(パクり)の倫理 

2016年1月5日

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戸谷洋志(とや・ひろし)
1988年、東京都世田谷区生まれ。専門は哲学、倫理学。法政大学文学部卒、大阪大学前期博士課程卒(文学修士)。現在、大阪大学後期博士課程に在籍。日本学術振興会特別研究員。2013年5月から2014年2月まで、大阪大学文学研究科助教代理。2014年4月から2015年3月まで、ドイツのフランクフルト・ゲーテ大学に留学。ドイツの現代思想を中心に、科学技術をめぐる倫理のあり方を研究している。

Photo:Masaru Kamikura, CC BY-2.0(cropped)

Photo:Masaru Kamikura, CC BY-2.0(cropped)

2015年12月19日にMOONLIGHT BOOKSTOREにて行われた今回の西千葉哲学カフェでは、「模倣(パクり)の倫理」をテーマにしました。昨今、様々な場面で模倣(パクり)が世間の関心を集めています。STAP細胞をめぐる騒動、東京オリンピックのエンブレムをめぐる問題、そして今回の哲学カフェの直前には、Mr. Childrenの歌詞が盗用されているのではないかという疑惑が盛んに報道されていました。そうしたことを念頭に置きながら、そもそも模倣(パクり)をどう倫理的に考えたらいいのかと、参加者の皆様と語り合っていきました。

ある作品が別の作品に盗用されているのではないか、という疑惑が持ち上がったとき、大きな困難になるのは、それが本当に盗用であったか否かを判定することです。その難しさを露呈させたのが、東京オリンピックのエンブレム問題でしょう。エンブレムのデザイナーは、それは自分が自力で創り出したものであり、たまたま似てしまっただけだ、と主張していました。本当にそうなのかも知れませんし、あるいは、彼が嘘をついているのかも知れません。いずれにしても、外からその真偽を判定することはできません。

しかし、そもそも模倣(パクり)そのものは決して悪いことではない、という指摘がなされます。その方によれば、模倣(パクり)をしなければコミュニケーションなど取れなくなってしまいます。たとえば、私たちが使う言葉は既に別の誰かが使ったものです。完全にオリジナルな言葉は、自分にしか意味が分からないのだから、結局誰にも伝わらず、言葉として機能しません。そうである以上は、模倣(パクり)をすることは私たちにとって必要不可欠の営みである、と考えるべきです。別の参加者がさらに付け加えます。模倣(パクり)が問題になるのは、あくまでも著作権や法的な利害関係が生じるときであって、そうでないときには悪いことでもなんでもない――きわめて説得的な主張です。

しかし、反対意見も上げられます。たとえ法的な問題のレベルではなくても、模倣(パクり)が問題視されることはある、という指摘がなされます。その方に拠れば、たとえば学校教育などでは、オリジナリティが道徳的に好ましいこととして捉えられ、模倣(パクり)をすることは好ましくないものだと教えています。そう考えると、たとえ法的な問題の次元になくても、私たちは「模倣(パクり)をするべきではない」という道徳的な価値観をもっていることになります。

また、別の観点から次のような主張もなされます。そもそも「模倣」と「パクり」は違うのではないか、というものです。そう主張してくれた方は、「模倣」が単に真似ることであるのに対し、「パクり」はもっと違ったニュアンスを含んでいて、どちらかといえば「相手の領分を不当に詐取する」という意味が含まれているのではないか、と指摘してくれました。例えば、誰かがある作品を「パクる」というとき、それは単に作品を模倣することだけではなく、その作品がもともと属していた別の作者の領分を詐取する、という意味が含まれている、ということです。

これに関連して、別の参加者の方は次のような指摘をしてくれました。こうした「パクり」という概念の背後にあるのは、ある作品の権利が常にその作者一人に帰属する、という考え方です。しかし、この考え方はずっと昔からあったものではありません。たとえば、ルネッサンス期の芸術作品は工房で沢山の人々が役割分担をすることで創られていました。そうである以上、作品の権利を誰か一人に帰属させることは難しいでしょう。また、江戸時代の日本には長屋という建築様式があり、そこでは他者と区別される個人的な権利の領域が曖昧でした。そう考えてみると、「パクり」という概念が拠って立っている価値観そのものが、必ずしも普遍的ではないことが分かります。

「模倣(パクり)の倫理」を考えるとき、それは最終的には「模倣」や「パクり」だけではなく、ある時代の人間観にまで話が及んでいきます。もちろん、その全容を語り尽くすことはできませんでしたが、少なくとも、その地平の広がりを垣間見ることはできたのではないかと思います。