感じるスコラ哲学:存在と神を味わった中世

2016年10月6日

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哲楽編集人・田中さをり

山内志朗『感じるスコラ哲学:存在と神を味わった中世

img-yamauchi哲学史の中でも特に複雑でわかり難いといわれる中世スコラ哲学。本書によると、スコラとはキリスト教の神学校を指し、「ラテン語と無味乾燥な勉強」がのちに体系化されて大学で大神学者により講義されるようになったものがスコラ哲学であるという。これまでそのスコラ哲学の見所・勘所を披露しつつ、水先案内人として多くの著作を残してきた著者は、本書で「感じる」ことを基点として、スコラ哲学の醍醐味を再現することを試みている。

とくに、後に哲学的大論争に発展した、普遍は事物とする実在論と、名称とする唯名論との通説的な対立関係を、14〜15世紀の教会のミサで用いられたパンにまつわる諸説から切り崩していく様は圧巻である。キリスト教では、パンとワインを食すことでキリストの肉と血をいただく証とする「聖体拝領」という儀式により、教会の一員(member)つまり、教会の体の一部になると考えらているが、これを支えていたのが中世の「実体変化説」という教義だという。パンという実体は消滅しても性質は残るとするこの実体変化説を、実在論者のウィクリフも、唯名論者のオッカムも、「偶有性は基体なしに存在しえない」として否定する。

そして、その否定の背景には、裕福な人にしか実現できなかった聖体拝領の儀式のあり方、ひいては教会そのものを批判的に捉える論理的な神秘主義があったことが、本書の終盤でじわじわと示されていく。身体から切り離された概念上の対立として考えられがちな論争の端緒が、こうして中世の文化や慣習、そしてパンやワインといった味覚で感じられるものを切り口に開かれていく。

しかし、そうは言っても、中世スコラ哲学の素材が難解であることは事実である。もし本書で引っかかるところがあれば、前年の哲楽インタビュー時に著者の山内志朗氏が薦めていた「音読」をお試しいただきたい。きっと少し、理解が進むはずである。