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立花浩司さんは、北陸先端科学技術大学院大学の社会人学生として、文化人類学を専門とする教員のもとで科学技術と社会に関する知識科学を研究している。大学の農学部を卒業後、バイオ系の実験機器・試薬を製造販売する会社に就職した。研究者向けの取扱説明書や技術資料を書く日々の中で、お客様である研究者の深刻な問題が見えてきた。研究者にはとにかく「話が通じない」のである。通じなければ、製品の特徴を伝えることもできない。一方で研究者の中には、途中で別の業界に転職する人もいる。立花さんは、その対話不全の渦中に身をおきながら、製品を提供する立場である自分の将来と同時に、研究者達の将来が気になって仕方がなくなったのだ。
2003年、NPO 法人サイエンスコミュニケーションが発足した。立花さんも理事の友人として、Web サイトやメールマガジンで関連ニュースを配信する仕事を手伝うようになった。会社の業務とは別に、そうした情報収集と配信を行うことで、サイエンス・コミュニケーションの萌芽期を肌で感じることができた。
2004年には京都で、「科学カフェ京都」が立ち上がった。市井の人々の中から、日本語の「科学」という名を使った、科学技術に関するテーマについて、あらゆる立場の人々が議論する場として始まったのだ。そうしたボトムアップの草の根活動の一方で、2005年には全国一斉に「科学技術週間サイエンスカフェ」が始まる。文科省が毎年発行している科学技術白書に、イギリス・フランスの科学者の社会的責任を果たすための討論の場(カフェ・シアンティフィーク)が紹介され、日本の科学者にも市民に専門知と科学の相場観を伝え、ともに考えることが要請されたのだ。さらには哲学者の中にもそうした西洋輸入型のサイエンスカフェを開催する動きが起こり始めた。
こうした草の根型、お上からの指令型、哲学者や科学者らによる輸入型のサイエンスカフェが広がる中、立花さんは、仲間達と独自のサイエンスカフェを立ち上げた。お茶の水女子大学の社会人向け講座で出会った受講生達と、「科学ひろば」という団体を作ったのだ。そこで開催された記念すべき第一回目のサイエンス・カフェは、朝日新聞社の科学部のベテラン記者を話題提供者に、原子力の表象の歴史を踏まえた議論の場だった。
原子力をめぐる歴史とは、1952年に鉄腕アトムの連載開始、1954年にはビキニ環礁水爆実験により日本の漁船が多数被曝、水揚げされたマグロの汚染が問題化、1965年に茨城県那珂郡東海村に日本で初めての原子力発電所が供用開始、1979年に米国スリーマイル島での原子力発電所事故、といったものだ。これらの歴史の流れの中で、核に対する価値判断が、新聞報道のなかでも大きく揺れてきたという。この試みは大成功し、立花さんはその後も次々と全国各地でサイエンスカフェを開き続けた。社会人になってから科学者との対話不全の問題に気づき、街中に議論の場を作ることでその問題の解消を目指していた立花さんは、「働き盛りの大人の議論の場」にこだわる。大学を卒業して、定年退職するまでの22歳から60歳くらいまでの大人達は、職場や家庭内での任務に追われて、社会的な問題に目を向ける機会は少なくなる。しかし「働き盛り」だからこそ、科学技術がもたらす問題の、直接の利害関係者になりうる対象でもある。立花さんは、この世代の学びの機会の少なさと責任の重さのギャップを埋めるための場所を全国各地に張り巡らせたいと考えているのだ。
科学には、科学者だけに価値判断を負わせられないトランス・サイエンスという領域がある。確率で表される放射線の健康被害のリスクや、事故そのもののリスクの解釈が、各自の住んでいる場所や立場で異なりうる原発の問題は、まさにこの領域に当てはまる。立花さんは、平時こそ、こうした領域の話を、土地に馴染みのある話題を通じて共有する必要性を強調する。例えば千葉県には、コンビナートの問題、地震後の液状化の問題が深刻な地域が存在する。何か大きな事故や災害が起こる前に、住民達の間でそのリスクの存在を共有したい。化学の現場で働き、化学工場に近い場所で暮らしてきた立花さん自身が、そんな「科学ひろば」を強く欲しているのだ。
立花浩司さんの記事を含む「特集:3.11 後のサイエンス・コミュニケーション」は哲楽5号でお読み頂けます。
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