「かわいいの正義」第4回 西千葉哲学カフェ

2015年9月18日

写真
戸谷洋志(とや・ひろし)
1988年、東京都世田谷区生まれ。専門は哲学、倫理学。法政大学文学部卒、大阪大学前記博士課程卒(文学修士)。現在、大阪大学後期博士課程に在籍。日本学術振興会特別研究員。2013年5月から2014年2月まで、大阪大学文学研究科助教代理。2014年4月から2015年3月まで、ドイツのフランクフルト・ゲーテ大学に留学。ドイツの現代思想を中心に、科学技術をめぐる倫理のあり方を研究している。




Photo:Dick Thomas Johnson, CC BY-2.0(cropped)

Photo:Dick Thomas Johnson, CC BY-2.0(cropped)

真夏の哲学カフェ

2015年8月2日、西千葉にあるMOONLIGHT BOOKSTOREでの第4回の哲学カフェが開催されました。この日のテーマは「かわいいの正義」。かなり奇抜なテーマで、どれくらい参加者の方が集まってくれるか心配でしたが、当日は前回を超す多くの方々が参加してくれました。「かわいいの正義」は私が作った言葉ですが、そのもとになったのは「かわいいは正義」という流行語です。この言葉は、「かわいければ何をされても許してしまう」といったような、現代の価値観の一つを表す言葉です。今回の哲学カフェでは、この価値観そのものの「正義」を問い直してみよう、という趣旨のもとで、開催されました。

Photo: Saori Tanaka

Photo: Saori Tanaka

「かわいい」の本質は弱さ?

仮に「正義」を、正しいものと正しくないものを区別する指標として捉えるなら、そもそも正しく「かわいい」ものとは何なのか、そうした「かわいい」の本質に目を向ける必要があります。私たちが最初に議論したのは、あらゆる「かわいい」ものに共通する性格は何だろう、ということでした。しかし、この問いはすぐに大きな障害にぶつかります。というのも、「かわいい」と呼ばれるものの範囲は日々拡大しており、今日では気持ち悪いものやグロテスクなものまでも「かわいい」と呼ばれてしまうからです。

ある参加者の指摘に拠れば、そもそも「かわいい」という言葉の起源は清少納言の『枕草子』であり、そこで「かわいい」ものとして描かれているのは「雀」や「稚児」でした。ここから、自分よりも弱く、庇護を必要とするものが、「かわいい」のもともとの本質であった、という仮説が立てられます。しかし、今日では「ぶさかわ」、「きもかわ」という、この仮説だけでは説明することのできない「かわいい」の概念があります。「ぶさかわ」は、「不細工だけどかわいい」、「きもかわ」は「気持ち悪いけどかわいい」ということを意味する言葉です。しかし、不細工であるということも、気持ち悪いということも、庇護や弱さと結びつく概念ではありません。そのため、「かわいい」の本質はかつてよりも多様化している、と考える必要がありそうです。

しかし、そうだとしたら、逆にこう考えることもできるかも知れません。「かわいい」に本質はなく、どんなものでも「かわいい」ものになりえる。そう指摘してくれた参加者は、ある共同体で誰かが「かわいい」と名付ければ、それによって名付けられたものは「かわいい」もになる、という仮説を立てました。その仮説を裏付けるものとして、例えばアーティストのきゃりーぱみゅぱみゅさんの世界観が挙げられるかも知れません。彼女は、血液や内臓など、普通なら不快感を催させるものを「かわいい」ものとして描きます。これは、「かわいい」ものは、それが「かわいい」と名付けられることで「かわいい」ものになるのであって、名付けられるものに本質があるのではない、という考え方を例証する事態でしょう。

 

絶対にかわいくならないもの

この仮説に従えば、「かわいい」に本質はないことになります。この仮説は説得的であると同時に強力です。しかし、ある参加者は、この仮説には反例が存在することを指摘します。それは、山や海などの、巨大な自然物には、「かわいい」という言葉を与えることができない、ということです。つまり、そうした自然物は「絶対にかわいくならないもの」であり、「かわいい」の本質を欠如態として示す例に他なりません。山や海などの「絶対にかわいくならないもの」に共通するのは、別の参加者に拠れば、人間の想像力を超えている、ということです。従って、これを翻せば、「かわいい」の本質を次のように表現することができるでしょう。すなわち、「かわいい」ものは、常に人間が想像できるものに限定される、ということです。

 

「かわいい」で隠されるもの

とはいえ、この定義も、「かわいい」と呼ばれるものの多様さを阻むものではありません。また、それまでは「かわいい」と呼ばれていなかったものを、誰かが「かわいい」ものに変えてしまう、という生成のプロセスを無視することもできません。この働きは、実はとても身近なところでも起きていることです。「かわいい」服の代名詞であるセーラー服は、もともとは水兵の服であり、つまり軍服です。また、「かわいい」デザインで知られる子供用ランドセルは、もともとは軍事用の鞄でした。最近では「艦隊これくしょん」というゲームが人気で、ここでは戦艦が「かわいい」少女として擬人化されています。しかし、戦艦は殺人兵器です。私たちは殺人兵器まで「かわいい」と呼ぶことができてしまいます。しかも、そうした「かわいい」ものと化した軍事品・兵器は、それが本来もつはずの残酷さや暴力性をすっかり脱色されています。しかし、それは本当に「正義」なのでしょうか。

2時間という限られた時間で、私たちが議論することのできたことは、「かわいい」という言葉のもつ多面性と比べれば、ごく僅かでした。しかし同時に、「かわいい」という言葉のもつ隠された側面に参加者がそれぞれの仕方で光を投じていく、興味深い時間でもありました。

 

■ 合わせてお読み下さい
「疲れってなに?」第3回 西千葉哲学カフェ
「自由」第5回 西千葉哲学カフェ