2015年9月6日に開催された、通算5回目になるMOONLIGHT BOOKSTOREでの哲学カフェ。今回のテーマは「自由」でした。自由という概念は、伝統的な哲学のテーマであり、突き詰めて考えていくと眩暈がするほど難解です。しかし、そうであるにも関わらず、私たちの生活に深く密着していますし、場合によっては、自由をどう捉えるかということが、私たちの人生観に大きな影響を与えもします。今回の哲学カフェでは、そうした現実との関わりに注目しながら、自由をめぐる対話が交わされました。
自由の定義とは何でしょうか。これに対するもっともシンプルな答えは、可能な選択肢の中から、自分で何かを選択すること、です。ある参加者に拠れば、そうした意味での自由を持つのは人間だけです。人間以外の動物の行動は、常に生存本能によって縛られているために、自由なものではありません。これに対して人間は、生存本能に抗って何かを選択することができます。また、もう一つのシンプルな答えとして、自由とは責任をもつことである、という意見もありました。自分が自由であるためには、自分の行為の責任をすべて自分が引き受けることが必要です。そのため、自由であるということは、必ずしもポジティブことだけではなく、結果として生じたネガティブな事柄を受け入れることを含んでいます。
可能な選択肢から、本能に抗って何かを選択し、その結果生じることに対して責任を負う。それが、私たちが想定した自由の本質です。ここからはいくつかの興味深い帰結が得られます。まず、責任をもつことが自由の条件なら、子供は自由ではない、ということになりますし、様々な理由によって法的に責任能力を認められていない人々も自由ではない、ということを意味しています。ここに示されているのは、自由という概念は社会生活や法と密接に関わっている、ということです。
他方で、社会生活のなかでほとんど完全に自由が失われる状態もあります。ある参加者によれば、それは労働です。労働をしているとき、資産家や上司が命令することは絶対であって、労働者には自由がありません。労働者が自由ではないのは、労働者は労働によって賃金を得なければならず、賃金がなければ生活ができないからです。つまり労働者は、生活を営まなければならないという必然性に束縛されているために、自由になれないのです。
では、労働がまったくない状態では、人は自由になれるのでしょうか。そうではない、とある参加者が指摘します。まったく労働がなければ、人は「毎日サンデー」の状態に置かれることになるが、そうした状況は単に無為でしかないのであって、かえって何もする気が起きなくなってしまう。それは必ずしも自由ではない。そう主張してくれた方は、ご自身がすでに定年退職されており、必然性がまったくないことの不自由を説得的に語ってくれました。
社会生活の中で、労働の必然性から自由で、また「毎日サンデー」の無為からも自由な活動は、一体何があるでしょうか。ある参加者に拠れば、そうした活動として考えられるのは政治運動、例えばデモです。デモをしてもお金が儲かるわけではありません。ですから、かえってデモは生活の必然性から自由であると考えることができます。同時に、デモは倒すべき敵対者を相手にするために、無為に陥ることもありません。従って、昨今盛り上がりを見せているデモ活動こそ、社会生活における自由な活動のモデルなのではないか、という意見が上がりました。
しかし、人がデモ活動をしようとすると、ここにも大きな障害が立ちはだかります。それは「空気」です。ある参加者に拠れば、これは特に日本社会に特有のことですが、人が世間から自由に活動をすると、どこからか「空気」の圧力がかかり、インターネット上などでバッシングが起こります。この「空気」の圧力を意識するあまり、かえって自由な活動ができなくなることは、よくあることです。そのため、社会生活における自由な活動を最後に阻むのは、「空気」である、と考えることができるでしょう。
しかし、「空気」は自然発生するものではありません。「空気」は、必ず誰かが作っているのであり、また今ある「空気」を誰かが変えることだってありえるはずです。そうだとすれば、「空気」を作り変えることができる者こそが、本当に自由な人間である、ということができるかも知れません。
今回の対話では、社会生活における理想的な自由は、「空気」を作る力である、という結論に行きつきました。もちろん、違った道での議論もありえたでしょうが、今回の対話は、今日の社会情勢を新しい光のもとで捉えうるような、示唆に富んだものであったと思います。
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