「疲れってなに?」第3回 西千葉哲学カフェ

2015年9月15日

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戸谷洋志(とや・ひろし)
1988年、東京都世田谷区生まれ。専門は哲学、倫理学。法政大学文学部卒、大阪大学前期博士課程卒(文学修士)。現在、大阪大学後期博士課程に在籍。日本学術振興会特別研究員。2013年5月から2014年2月まで、大阪大学文学研究科助教代理。2014年4月から2015年3月まで、ドイツのフランクフルト・ゲーテ大学に留学。ドイツの現代思想を中心に、科学技術をめぐる倫理のあり方を研究している。




Photo:  target="_blank">Taichiro Ueki.  CC  BY-ND 2.0(cropped)

Photo: Taichiro Ueki. CC BY-ND 2.0(cropped)

西千葉での哲学カフェ再会

2015年7月5日に、西千葉にあるMOONLIGHT BOOKSTOREでの第3回哲学カフェが開かれました。この日のテーマは「疲れってなに?」。私たちは様々な出来事や気分を「疲れ」という一つの言葉で言い表します。身体の疲れ、心の疲れ、恋愛の疲れ、人生の疲れ。そうした「疲れ」に何か共通するものはあるのか、あるとすればそれは何なのか。お越しいただいた方々と一緒に対話をしました。

当日参加されたのは、9名。若者からご年配の方まで、様々な年齢層の方がお越しくださいました。哲学カフェの理念の一つは、年齢や肩書にこだわらないで、対等な立場で対話することです。この日集まってくれた方々は、そうした理念を体現し、熱のこもった刺激的な対話を演じてくれました。

 

繰り返しが疲れを生む?

「疲れ」について対話するとなると、多くの場合には「どうしたら疲れないか」ということが話の中心になると思います。でも、今回の哲学カフェでは、少し違ったレベルが問題になりました。それは、そもそも「疲れ」とは何なのか?という問いです。

対話のなかでは、一つの具体例が中心的に用いられました。それは「Facebook疲れ」です。この言葉は、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の一つである「Facebook」に没頭してしまうあまり、そこでのコミュニケーションに疲れてしまう、という現象を指した言葉です。でも、少し考えてみると、これってとても不思議です。友達とのコミュニケーションは、本来なら「疲れ」を癒すもののはず。それなのに、人は何故、「Facebook」上でコミュニケーションすることに、かえって「疲れ」てしまうのでしょうか?

対話を進めていくうち、こんな仮説が持ち上がりました。Facebookは始めて間もないころはとても面白いから、みんな没頭して使ってしまう。でも、ある日ふとその没頭が醒めてしまうと、友達との強制的なコミュニケーションに疲れきっている自分に気づく。「Facebook疲れ」の背景にあるのは、そうした「没頭」から「醒める」への移行なのではないか。そして、醒めてしまったときに気づくのは、毎日同じような投稿に「イイネ」を押し、同じような「お知らせ」ばかり受け取っているとなのではないか。つまり、私たちのコミュニケーションが「繰り返し」に陥っている、ということなのではないか。この「繰り返し」が「疲れ」の正体なのではないか、ということです。

疲れを克服するには

「疲れ」の本質とは「繰り返し」である――そうだとすれば、「繰り返し」を停止させることができれば、「疲れ」を克服することができるのかも知れない。ある参加者の方は、そうした立場から、「賭け」に「疲れ」を癒す力があると指摘します。「賭け」は、予測不能であるからこそ成り立つものであり、そうした意味で「繰り返し」を拒否するものであるからです。

しかし、「賭け」は中毒性をもっていることでも知られています。確かに「賭け」によって「繰り返し」が一時的に中断することはあるかも知れませんが、しかし「賭け」にのめりこんでしまい、「賭け」から抜け出せなくなれば、それはそれで新しい「繰り返し」になってしまうでしょう。

私たちが達したもう一つの別の答えは、他者の身体を前にして語り合うことでした。SNSを利用するのとは異なり、他者の生きた身体を目の前にしたコミュニケーションは、必ずボディ・ランゲージを伴います。そこで示される身振り、手振り、佇まいは、言葉以上に多くの情報を人に伝えることができます。もちろん、ボディ・ランゲージを使ったからといって、「疲れ」が生じなくなるわけではありません。一生懸命なにかを伝えようとしても、結局理解し合えず、徒労に終わることもあるからです。しかし、他者の身体を前にしたコミュニケーションによってもたらされる「疲れ」は、必ずしも悪いとはいえないなにかポジティブなもの、言い換えるなら「心地よい疲れ」なのではないか――そうした議論に達したところで、今回はタイムアップになりました。

最後の論点が、他者の身体にフォーカスしたことは、非常に興味深いことです。「他者」、「身体」、「繰り返し」は、私たちの生にどのように関係しているのか。ここには、さらに深化しうる問いの可能性が開かれているのではないでしょうか。

 

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