2015年12月12日に開催された第2回現代哲学ラボにおいて、私は永井均に公開インタビューを行なった。それはたいへん刺激的で有益なものだった。そのときに私が質問したひとつのテーマが私にとって重要なものであることが判明したので、ここにメモとして残しておきたい。
まず私は永井の『哲学の密かな闘い』(ぷねうま舎 2013年)の次の箇所に注目した。永井は、翔太と由美という二人の人物を想定し、翔太の記憶が由美の記憶に徐々に置き換わっていくという思考実験をしている。そして、その議論をさらに進める前提として、翔太から見える世界について次のように書く。「すなわち、この世界は、もともと翔太の目から見えている世界で、ただひとり翔太の体が殴られた時だけ本当に痛く、現実に動かせる体は翔太の体ひとつしかない、というような世界なのです。これを翔太が〈私〉である世界と表記しましょう」(80頁)。
ここで永井が表記している「翔太が〈私〉である世界」という事態は、厳密に考えたときに、それが何を意味するのかを理解できてはならないと私は思うのである。それは、私が森岡である場合においてそうであるだけでなく、私が翔太である場合においてもそうなのである。すなわち、「誰かが〈私〉である世界」という事態は意味を持たないのである。さらに突き詰めて言えば、「~が〈私〉である」という部分に問題点は集約されることになると考えられる。
その理由を考えてみる。まず次の3つを区別したい。
(1)〈私〉が「これ」である(〈私〉が森岡である)
(2)〈私〉が翔太である
(3)翔太が〈私〉である
まず(1)「〈私〉が「これ」である」だが、これは「現実」を表記している。これは「現実」であり、それが何を意味するのかを私たちは理解することができる。「これ」が何なのかを指定するために「〈私〉が森岡である」と言い換えたとする。このとき、そこで言われている事態が正しくない場合であったとしても、それが何を意味するのかについては理解可能である。
次に(2)「〈私〉が翔太である」を考えてみたい。まず〈私〉が翔太でないときには、この文章は偽である。しかしながら、「〈私〉が翔太である」という文章を私は理解することができる。それはたとえば、〈私〉が幽体離脱して、翔太と呼ばれる身体に乗り移ったときの状態のこととして理解される。これは〈私〉の身体についての反事実的な言明である。現実においては〈私〉の身体は翔太の身体ではないのだが、〈私〉は反事実的なやり方で、〈私〉の身体が翔太の身体であるような状況を有意味に想定することができるのである。
第三に、(3)「翔太が〈私〉である」を考えてみたい。この文章は、(2)の「〈私〉が翔太である」とは根本的に異なっている。(2)においては、〈私〉というものがまず措定され、その後に、「が翔太である」が反事実的に措定されている。この場合、まず最初に措定される〈私〉は、この宇宙にただひとつだけ特殊な形で存在する独在的なこの私(という表記によっておのずと示されるもの)のことである。そしてその〈私〉に付帯するものとして反事実的な翔太の身体が導入されている。これはとくに問題なく理解可能である。これに対して(3)においては、まず最初に「翔太」が措定される。そしてその翔太に付帯するものとして〈私〉というものが導入されている。しかしながら、「この宇宙にただひとつだけ特殊な形で存在する独在的なこの私(という表記によっておのずと示されるもの)」としての〈私〉は、「何かがそれである」という形の述語にはけっしてなり得ないものである。そしてそれはけっして何かに付帯するようなものではない。
というのも、もし仮に、〈私〉が翔太ではない状況において(〈私〉の身体が翔太ではない者の身体であるときに)、翔太が〈私〉であるということが成立するとしたら、そのとき〈私〉は「この宇宙にただひとつだけ特殊な形で存在する独在的なこの私(という表記によっておのずと示されるもの)」という地位を失っているのであり、それはもはや〈私〉とは呼べない。したがって、〈私〉が翔太ではない状況において表記された「翔太が〈私〉である」という文章は、「〈私〉」という概念を正しく用いるかぎりにおいて、理解可能であってはならない。
念のため繰り返すが、〈私〉が翔太ではない状況において、「〈私〉が翔太である」という文章は端的に偽であるが理解可能である。ところが、〈私〉が翔太ではない状況において、「翔太は〈私〉である」という文章は真でも偽でもなく、端的に理解不可能でなければならない。
では、仮に〈私〉が翔太であったと仮定してみよう。この場合、「〈私〉が翔太である」という文章は理解可能であり、真である。しかしそのときであっても、「翔太が〈私〉である」という文章は真でも偽でもなく、端的に理解不可能でなければならない。この点はすごく不思議な感じがするけれども、私の主張の核心的な部分である。
というのも〈私〉というのは隣人として「並び立つものがない」ような独在性そのものであり、それと同等の性質は他の何ものに向けても開かれてはいない。もし「翔太が〈私〉である」と言ってしまったとき、その〈私〉は様々な人々によって選び取られ得るものになってしまい、「この宇宙にただひとつだけ特殊な形で存在する独在的なこの私(という表記によっておのずと示されるもの)」という概念が内包しているところの「任意的被選択不可能性」が崩壊することになる。
その結果として、「翔太が〈私〉である」という文章中の「〈私〉」は、本来の意味における「〈私〉」ではなくなってしまうのである。「〈私〉」というものは、「翔太が今日の主賓である」とか「由美が今日の主賓である」などのような形でその主語を任意に選択可能な述語であるかのような表記をしたとたんに、その「〈私〉」から本質的な「〈私〉性」が消失してしまうような概念なのである。なぜそうなのかは、いまの時点では分からない。たぶん「独在性」と「選択」のあいだに重要な連関があるのだろう。これについては改めて別の機会に考えてみたい。
以上を書いたのは2015年末のことであるが、その後、
はじめに
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