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2015年7月25日 ホテル&レジデンス六本木ニシロクラボにて
ゲスト:永井均
聞き手:森岡正博
進行:田中さをり
Music: 風間コレヒコ、紀々
田中:本日は、第二回現代哲学ラボを、ホテル&レジデンス六本木にて公開インタビュー形式でお届けしてまいります。全編を通して、ぷねうま舎のご提供でお届けいたします。冒頭の音楽は風間コレヒコで「Body and Nobody」、たくさんの方々に支えていただいて、こんな素敵な場所で、こんな素敵な音楽とともに、公開収録をお届けできるまでになりました。お集まり頂いたみなさま、ありがとうございます。本日のゲストは永井均さんをお迎えしておりまして、インタビュアーは森岡正博さんにお務め頂きます。それではさっそくお迎えしましょう。大きな拍手でお願いします。
森岡:森岡です。公開インタビューということで、永井さんとのトークを始めたいと思います。みなさん、もちろん永井さんのことは十分ご存知だと思いますけれども、まず、私の目から見て永井さんの簡単なご紹介をしたあとで、二冊、最近御本を出されていますけれども、その中から最近私が気になったことを中心にいろいろお聞きしたり、ちょっと疑問を呈したりというような感じで、いろんなところから永井さんの考えていることを探っていきたいと思います。
まず、永井さんと私の出会いというのは実はかなり古くて、もう実はあんまり覚えていないんですが、確か一九八〇年代ですよね。私がまだ大学院生だったんじゃないかと思いますが、ちょうどその時に永井さんが、あれは慶応の紀要の論文でしょうかね、大学紀要と学会誌にも論文を書かれていて。それがいわゆる永井のキーワードになった〈私〉……。これは何と読めば、山鍵ですか?
永井:山括弧(やまかっこ)ですね。
森岡:山括弧ですか。〈私〉(やまかっこのわたし)についての論文があって、それがたまたま研究室にあったので読んで、衝撃を受けたんですよ。何かちょうどその時、私も似たようなことをずっと考えていて。その時に、似たようなことをもうすでに考えて論文にしている人がいる、というのですごく驚いて。それでどこかでお会いしてちょっとお話をしたと思いますが、何を話したか、私の方からはまったく覚えていません。何か覚えていますか?
永井:覚えていないですね。会ったことは覚えていて、確か東大の近くですね。
森岡:東大の赤門の前で待ち合わせた気がするんですけどね。
永井:あのあたりで喋ったことは(覚えていますが)、中身は全然覚えていないですね。
森岡:ねえ、全然覚えていないですね。おかしいですね。そのとき私、こっちから本当に会いたいなと思ってお会いした。その頃は永井さん、まったく無名ですからね。そのあと本を出されて、「〈私〉のメタフィジックス」[1]というのが八六年ですかね。勁草書房から出されて。それで注目を浴びたんですが、ちょうどその二年後に私も同じ勁草書房から、「生命学への招待」[2]という、生命倫理の本を出した、というような感じになっていますね。そのあとはみなさんご存知の通りなんです。私が永井さんの書いたものを読んでいるといつも思うんですが、問題意識がすごく首尾一貫しているなと思って。一つのところに食いついたら離れないというね。それは本当に哲学者っぽいなあという感じがしています。
森岡:問題意識は何なのか、一言で言えいわれるとなかなか言えないんでが、感覚的に言うと、「決して普遍化できないはずのもの」というのが実は普遍化によって成立する。言語によってある意味で示されているけれども、そのままズバリを言語で追い求めていこうとすると必ず失敗していくとか、空回りしていくとか、別のものに読み替えられていくというような、そういう仕組みをあらゆる角度から追求したい、というのが中心にある問題意識かなと、私はそう理解しているんです。だから決して普遍化できないっていうものの代表選手みたいなものが〈私〉だと思うんですよ。
このあたりの話は、お聞きになっている方もだいたいは、ぼんやりとは少なくともご存知だと思います。〈私〉というものってみんな自分のことを私と言うんだけれど、よく考えてみると宇宙の中でこの〈私〉だけが独特の形で存在しているような〈私〉、みたいなことを言いたくなるじゃないですか。でもそれを言語で言おうとする瞬間に全部それが失敗していくという、すごく面白いことになっている。というのを綺麗に解釈して論理構築したというのが、永井さんのやっぱりすごいところかなと思います。
ただ、ちょっとお聞きしたいのは、今、普遍化できないはずのものを、普遍化を宿命とする言語を使って表現する時に云々という話をしましたが、それって別に〈私〉だけじゃないですよね。〈今〉っていうのがそうだし、〈ここ〉っていうのがそうだし、あと〈現実〉とかいうのもそうかもしれないですけれども。永井さんは最初の本では〈私〉というところに注目したじゃないですか。これ、何か順序あるんですか。〈私〉というのが何か初っ端(しょっぱな)にあって、それでよく考えたら〈今〉もそうだな、とかね、〈ここ〉っていうのも似ているな、という話になっているのか。それとも〈私・今・ここ・現実〉何とかというのを一気にどかんと、同じ問題として出てきたのか。どっちなんですか?
永井:時間的な順番としては一気にじゃなくて。〈私〉ということ、自分のことから考えてこの問題に行き着いて、それであとから考えたら、これは〈私〉だけじゃなくて、同じ構造は〈今〉とか〈現実〉とかそういうものにもあると。〈ここ〉っていうのは体の関係ですから、〈私〉がいる場所が〈ここ〉と考える、「〈私〉のいる場所」と定義するとすれば〈私〉と同じになりますけれどね。〈今〉は〈私〉とは独立だと考えられるので、そういう意味では独立なものと独立でないものがあって、その意味では……。でもこれはあれですね、〈私〉と〈今〉と〈現実〉の三つしかないですね。
森岡:その三つが……。
永井:なぜ三つなのかということ自体が謎なんですけれども。なぜ三つもあるのか、ということと、三つしかない。これが謎で、誰かが解明したら大したものだと思います。僕はわからないですね。なぜかそうなっていると。
森岡:もう一つはね、それにも関わらず〈私〉が最初に問いとして現れてきたのか、というのも謎ですよね。
永井:そうですね。
森岡:たまたまなのか……。
永井:たまたまってことはありますよね。なぜかというと〈今〉についてその問題を出した人はいて……。
森岡:昔からいますよね。
永井:解釈によればアウグスティヌス[3]やなんかもそうですし、それからマクタガード[4]もそうだし、いろんな人に(その問題は)あるけど、〈今〉についてだけ出したって人もいますし、マクタガードは〈今〉についてだけ出したと思いますし。それから現実世界ということに関しては逆の問題がありますよね。つまり現実世界ってこれだから独在するのは決まっていると思うのに対して、デイヴィッド・ルイス[5]という人がそれと逆のことを言って、どの可能世界もその世界にとって現実なだけで、この世界もただ我々が住んでいるからこれが現実だと思うだけだ、という形で。むしろ独在性の逆の形で。この現実世界というものに関してはふつう独在的に誰でも考えているわけですね。これしか現実世界はないと思っているんですけれど。そうじゃなくて、いかなる可能世界も、その世界にとって現実という形、誰もがみんな私であるのと同じような形で、その可能世界にとって現実世界であって、この世界もまたそうなんだと、いうふうに逆の問題を定義した人がいますから。そう考えますと問題は独立に存在しているんですが、そのつながりはまだあまり、誰もはっきり言ってないんじゃないかな、と思います。
森岡:なるほど。そうですね。その〈私〉というところに強く注目して照明を当てたというのが永井さんの、やっぱり、わりと永井っぽいところかなっていう感じがしますよね。でもその上でふり返ってみると、確かにウィトゲンシュタイン[6]はそういうことを言っていたというふうには見えますけどね。
永井:言っていたでしょうね。言っていたけれど、彼、ウィトゲンシュタインとしては独自のすごい私的な関心事というか、人生上の問題があって、〈私〉というその問題があるんだけれども、その問題をむしろ消したいと願ったんですよね。それは哲学的な意味というより、人生の課題だったんですね。これはちょっとあれなんですよ。煩悩を消滅させるみたいな話と似ていて、黒崎宏が仏教的に解釈しているけど、あれはみんな的外れだと言うけれど、実はそんなに的外れじゃなくて、本当にそういう意図が、意志がウィトゲンシュタインという人にはたまたまあってね、これはほとんど周りの人誰にも共有されない、まあ誰にも共有されないのは当たり前で、ちょっと意味がわからないものですけど、彼は本気でそう考えていたんで、その絡みがあるから、ちょっとウィトゲンシュタインが何をやっていか、わかりにくいと思いますね。
[1] 永井均「〈私〉のメタフィジックス」(勁草書房、1986年)。
[2] 森岡正博「生命学への招待―バイオエシックスを超えて」(勁草書房、1988年)。永井と森岡のデビュー作は、勁草書房の富岡勝氏によって編集された。
[3] アウレリウス・アウグスティヌス(340〜430)は、北アフリカのタガステで生まれる。ラテン語でキリスト教の著述を行うラテン教父最大の神学者となる。その著「告白」にて、時間論を展開している。
[4] ジョン・マクタガート(1866〜1925)は、イギリスの観念論哲学者。一九〇八年に「Mind」に発表した「時間の非実在性」という論文(Mind: A Quarterly Review of Psychology and Philosophy 17 (1908): 456-473.)が有名。時間を現在・過去・未来への流れとして見るA系列と、より前からより後への流れと見るB系列とに分け、A系列の方が時間にとって本質的であるものの、時間が実在するとみなすことに困難をもたらすとして、時間の非実在性を説いた。
[5] デイビッド・ルイス(1941〜2001年)は、アメリカの分析哲学者。独自の可能世界論で反事実的条件文の分析を行った。
[6] ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889〜1951年)は、オーストラリアで生まれイギリスで活躍した哲学者。
2015年12月12日にホテル&レジデンス六本木で開催された「永井均氏に聴く:哲学の賑やかさと密やかさ」では、永井均氏をゲストにお迎えしました。「現代哲学ラボ」第2号は、この時に収録した音源をテキストとして再現し、図表と脚注により、詳細な解説を加えました。
哲楽編集部 編
語り:永井均・森岡正博
定価:360円
はじめに
紀々「願いうた」より「小さいときバンザイ!」(作詞:永井均、作曲:紀々)
現代哲学の領域で哲学的な思索を発信している人たちが集い、次世代に哲学を伝える場を作り出す活動として、不定期に講演会やトークイベントを開催します。現代哲学の先端の話題を、そのレベルを落とすことなく、専門家以外の人々へと開いて交流していくことを目指します。哲学初心者の方や、大学生、中高生の方の参加も歓迎します。開催形式は、大学の教室を利用する教室形式と、カフェやスタジオを借りるカフェ形式のいずれかで行ない、参加費は無料の場合と有料の場合があります。
■ これまでの開催案内
第0回準備会 森岡正博「ロボット社会における生命」