存在の肯定につながる表現を追求する

2024年10月5日

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和田夏実(わだ・なつみ)
1993年長野県生まれ。ろう者の両親のもとで日本手話と日本語のバイリンガルとして育ち、絵本・ゲーム・アプリケーションなどのメディア制作を実践するアーティストとして活動している。現在、イタリア・ミラノ工科大学博士課程に所属し、EUのリサーチプログラムの研究員でもある。欧州各地のケア施設をめぐりながらケアとデザインについて研究している。

和田夏実さんは、ケアとデザインを専門とする研究者、アーティスト、手話通訳士として活動している。慶應義塾大学の学部生だった頃、和田さんは手話とバーチャル・リアリティを組み合わせた作品「ビジュアル・クレオール」を発表。この作品は数々の賞を受賞し、Forbes Japanの「30歳以下の30人」にも選ばれた。日本手話と音声日本語のバイリンガルとして育った和田さんが、2つの言語世界の媒介者として、直接的なコミュニケーションの可能性を世に問うた作品でもあった。

和田さんの両親は共にろう者で、家庭の中では手話、外では音声日本語に囲まれて育った。完全に2つの言語を独立のものとして話せるようになったのは4歳ごろのことだったという。

母はイタリア滞在中にろう者にとって心地の良いデフ・スペースの実例を学び、長野の自宅の設計に活かした。父は自然を愛する自由人で、山々を歩いては山菜のかたちを和田さんに教えた。世界中からろう者の友人たちを招いて各地の歴史と情景を手話で引き出すのも、父にはお手のものだった。

こうして幼い和田さんの目には、アートと長野の自然と世界史のエッセンスが注がれた。並行して、音声日本語の世界でも、多様な国籍をもつ人々との交流の場が用意されていた。母の取り計らいで、長野にある外国人労働者の子どもたちのための日本語学校に送り込まれたからだ。「ニーズとしてはぴったりでした」と和田さんは笑う。

中学時代は小説の世界にどっぷりはまった。学校の休み時間に日本の現代小説を読み耽り、自宅まで30分ほどの帰り道は、見慣れた景色を作家ごとに描写仕分ける遊びに興じた。大学生になった頃には、アートと手話を組み合わせた作品創りを始め、同時に手話通訳士の資格を取得し、方々から舞い込む依頼に応える業態をととのえた。

そんな和田さんの転機は、その数年後に訪れる。知人の紹介で、ミラノ工科大学大学院博士課程で学ぶ機会を得たのだ。今までの名付け難い経験の数々が、「デザイン・リサーチ」という領域の博士候補者として、しっかりと像を結んだ。和田さんの経歴を一読した指導教員は、これから取り組むべき研究分野を指定し、研究調査を加速させたのだ。

同時に長年気がかりだったデザイン・エシックスへの関心が形を伴うようになった。異なる世界をつなぐ仕事をしてきたからこそ、完全な理解、完全な翻訳の限界を和田さんは知っている。独善的な理解で相手を傷つけたり、不完全な翻訳で間違ったりすることに、どこかで恐れを感じ続けていた。その恐れは今、他者との関係性のなかで築かれる倫理として、研究計画の中で展開されている。

一方で、日本の優生保護法が廃止される3年前に 、和田さんは生まれた。この法律は「不良な子孫の出生」の防止を目的とし、遺伝性の疾患や障害のある人に対して、医師が本人の同意なしに不妊手術や人工妊娠中絶を行うことを認めたもので、18年間で合計約8万4000件もの手術が実施された。和田さんは時々、この世に生を受ける前に抹消されていたかもしれない自らの存在の可能性を想像して、身体が透明になって行く感覚に襲われることがあるという。だからこそ、「存在の肯定」もまた、実存的な研究テーマの一つになっている。

そんな和田さんの中にある、限界までやり抜く通訳者としての胆力と、限界の先を広げるアーティストとしての創造力が、イタリアの地で少しずつ根づこうとしている。存在が消え入るような痛みを知る一人として、自らの手で生み出す美しさがどんな形を取るべきか、ケアとデザインを巡る探究は続いている。

インタビュー収録の日、私たちはミラノ中央駅近くのホテルの一室で、カメラの前に座り、様々な記憶と言語について話した。キレのある手話で通訳する和田さんは貫禄がある。「たとえ道に迷ったとしても、最後にはきっと辿り着ける」、そんな表情が、和田さんへの依頼が絶えない理由の一つなのかもしれない。

 


2024年7月9日 インタビュー

◎文・映像字幕制作 / 田中さをり

編集者、文筆家。広報の仕事に従事しながら、哲学や科学技術をテーマに執筆編集活動を行う。哲楽編集人。手話は大学時代に習い始めた。近著に『時間の解体新書――手話と産みの空間ではじめる』(明石書店)、インタビュー本に『哲学者に会いにゆこう』(ナカニシヤ出版)全2巻がある。