「人工知能を愛せるか」西千葉哲学カフェ

2017年3月23日

写真
戸谷洋志(とや・ひろし)
1988年、東京都世田谷区生まれ。専門は哲学、倫理学。現在、大阪大学大学院医学系研究科 医の倫理と公共政策学教室 特任研究員。2013年5月から2014年2月まで、大阪大学文学研究科助教代理。2014年4月から2015年3月まで、ドイツのフランクフルト・ゲーテ大学に留学。ドイツの現代思想を中心に、科学技術をめぐる倫理のあり方を研究している。2016年9月に講談社より『Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲』を出版。

 

人工知能の進化の勢いが止まりません。最先端の技術によって、自ら学習する高度な人工知能の研究が進められています。また、お掃除ロボットのルンバや、スマホの秘書機能のsiriなど、より安価な製品として販売され、すでに生活に浸透している人工知能もあります。人工知能は、もはや未来のテクノロジーなどではなく、現在進行形で私たちの世界に存在し、私たちと生活をともにしているものなのかも知れません。そうだとしたら、私たちは、人工知能とどのように関係を結び、それらをどう扱うべきなのでしょうか。

2017年2月25日に、MOONLIGHT BOOKSTOREで開催された西千葉哲学カフェでは、「人工知能を愛せるか」をテーマとして、哲学カフェを行いました。私たちと人工知能の関係を考えるとき、おそらくそのもっとも極端な形は、愛するということであるはずです。私たちが人工知能を愛するとき、人工知能は私たちにとってどのような存在として現れているのでしょうか。あるいは、そのとき「愛する」ということは何を意味しているのでしょうか。さらに、もし愛せないのだとしたら、何が愛を阻む要因になっているのでしょうか。

そうした問いをめぐって、いつものように多様な参加者の方々が、自由に議論を交わしました。今回は、その対話の大まかな概要を書いていきたいと思います。

最初に議論されたのは、そもそも「愛する」とは何を意味するのか、ということです。この会では愛の種類は大きく三つに区分されました。第一に、人間の恋人のように愛すること、第二に、子どもや動物のように愛すること、そして第三に、道具として愛することです。これらはすべて異なる性格の愛です。たとえば、恋人に対する愛は対等で相互的なものですが、子どもや動物に対する愛は一方向的です。また、道具に対する愛は、一方向的である上に、無生物に対する愛である、という特徴をもちます。

この区分に従えば、人工知能を道具として愛することはできるでしょう。これについてはほとんど意見が一致しました。また、子どもや動物に対するような愛を傾けることも、おそらく可能でしょう。しかし、真っ二つに意見が分かれたのは、人工知能を恋人として愛することができるか、ということです。

肯定派の意見は、次のようなテクニカルな主張でした。まず、もし人工知能を愛せないのだとしたら、それは現実の恋人と人工知能を異なる存在として区別しているからです。しかし、そうした区別がどこまで妥当なのかは疑わしいです。またそれは、生きている人間と人工知能はまったく違うものであり、その違いを人間が認識できることを前提にしていますが、この前提も不確かです。

私たちが現実に人間を恋人として愛しているとき、私たちはその相手が本当に人工知能ではないという保証をどのように得ているのでしょうか?

たとえば、私たちの多くは、恋人の頭を割って脳を確認したことなどないでしょう。しかし、もしかしたら、そこにはぎっしり機械が詰まっていて、あるいはチップが埋め込まれていて、本当は人工知能だったということだってありえます。要するに、私たちが恋人を愛するとき、私たちは相手が人間か人工知能かを確認しない、ということです。言い換えるなら、そうした愛において、人間と人工知能を区別することは意味をなしません。そうである以上、人工知能を愛することがあったとしても、何も不思議はない、ということになります。

これに対して、人工知能を愛することはできない、という立場の人は、人間と人工知能はやはり違うし、その違いは愛の可能性に抵触する、と主張しました。そうした違いとして挙げられたのは、第一に「創造性」、第二に「有限性」です。

創造性とは、自ら自発的に何かを行うという能力です。たとえば、「別れ際に優しくされる」ということが愛にとって大切だとしましょう。しかし、もしもその行為がプログラムによってあらかじめ決定されていたものだったとしたら、その行為が愛にとって大切なものであるという価値は薄らぎます。そうした行為は、あくまでも自発的な意志に基づくものとして、そうしないこともできるけれどあえてしている、という形で行われるからこそ、意味をもつのです。

また、人工知能は死にません。それどころか、時間を追うごとにアップデートされていき、どんどん進化していきます。これは人間が生きている時間とはまったく対立するものです。人間はいつか死ぬし、死に向かって老いていくからです。そうした有限性こそが愛の条件である、という主張もなされました。すなわち、一緒に生活し、歳を重ねていくことができるからこそ、恋人に対する愛もまた深まっていく、ということです。

以上のように、人工知能が創造性と有限性を欠いている限り、人間が人工知能を愛することはできない、少なくとも生きている人間の恋人と同じように愛することはできない。それが否定派の論旨でした。

しかし、そうだとしたら、何故、誰かを愛するときに自発的な行為が重要なのでしょう。何故、一緒に歳を重ねることが重要なのでしょう。残念ながら、今回の対話ではそこまで議論を深めることはできませんでした。少なくとも今回明らかになったことがあるとするなら、「人工知能を愛せるか」という問いは、これを突き詰めて考えていくとき、そもそも誰かを愛するとはどういうことなのかという問いへと通じていく、ということでしょう。

 

■ これまでの西千葉哲学カフェ

「疲れって何?」

「かわいいの正義」

「自由」

「模倣(パクり)の倫理」 

「承認されたい私」