闇を浮遊する視点から物語を紡ぐ

2020年8月11日

写真
清水将吾(しみず・しょうご)
英ウォーリック大学哲学科で博士号を取得後、日本大学研究員、東京大学特任助教を経て、立教大学兼任講師を務める。目黒で毎月進行役として哲学カフェを開催する他、NPO法人「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」で子どものための哲学のイベントを不定期で開催している。

(インタビュー◎2020年8月5日テレビ会議にて Music: Korehiko Kazama

清水将吾さんは、大学講師として働く傍ら、東京を中心とした様々な場所で哲学カフェの進行役を務めている。「傍ら…」といっても、清水さんの場合、一方が本業で一方が副業というわけではなさそうだ。「哲学的な謎について人と対話する」ことを中心に据えて、国や分野の境を越えて学びの場を選び、仕事や依頼を受け続けてきた。そして今年の夏、一冊の哲学ファンタジーが上梓された。タイトルは『大いなる夜の物語』。41の謎で構成され、新社会人の登場人物の視点を借りて展開する。清水さんが20代の頃に考え始めた謎も含まれるが、数年前に一冊の物語にしようと決めてからは、「神話の力を借りてスルスルと書き進めることができた」という。

この物語は一風変わっている。一般的な物語では、主人公や書き手の視点という一定の場所から、様々な時空間で起きたことを理解して読み進めることができる。一方『大いなる夜の物語』では、この視点が動くのだ。動くのは時間や空間だけではない。主人公から登場人物へ、その登場人物から書き手へ、さらに地球から宇宙へ、オリオン座の裏側に行ったかと思うとまた物語の主人公の視点に戻ってきたりもする。

幼少期の清水少年は、シンガポールやアメリカや日本を行き来しつつ、『少年ジャンプ』で日本の漫画文化に慣れ親しんで育った。その後、日本の大学院を修了してからはイギリスに渡り、そのまま哲学の学位を取得する。人生の3分の1は日本語圏外の国で暮らしてきたことになる。清水少年の視点は、空間的に大きく移動してきたが、清水将吾という一人の人としての視点は変わらない。このことが物語の中心的な哲学的な謎にも繋がっている。視点という「儚い点」が存在すること、そしてそれが今日も明日も持続していること、これは一体、どういうことなのか。

清水さんの哲学者としての原点となるこの謎は、物語の中で視点の動きとして現れている。縦横無尽に動くその描写で、軽い目眩すら覚えるほど。

こうした描写と既存の文学的・物語的表現の共通性を探るため、川端康成の『雪国』冒頭の英訳や、隕石落下について国立科学博物館が伝えるプレスリリースを清水さんに朗読して頂いた。

任意の動く点を名もない誰かの視点として物語を始められる日本語表現に対して、英語表現は、ユークリッド空間上で “I” や “You” や “the train”として人や物の位置を指差しながら展開する箱のようでもある。『雪国』や隕石落下を伝える日本語表現は、実に巧妙に、しかし極めて自然に、任意の視点を世界の開けとして導入して、動かすことができる。その誰かの視点を通して、変わる風景や、移動する列車、隕石の形や色を、私の目の前にあるものとして感じることができる。

ひょっとしたら清水さんの哲学的な謎は、清水さんが様々な境界を移動する過程で託された、隕石の破片でもあるのかもしれない。その正体の解明は、物語の執筆を通して、読者とともに進められている。

 

インタビュー

誰かの視点を借りて体験する

 

田中:改めまして田中です。本日は最近本を出された『大いなる夜の物語』という本を出された清水将吾さんをお迎えしております。この哲楽ラジオですけど、だいぶ前回の収録から時間が空いてしまって、その間色々と別の活動していたのですけれど、この本を読ませて頂いてこれはちょっと再開せねばと思いまして、今日オンライン会議でご招待させていただきました。清水さん、今日はよろしくお願いします。

清水:清水です。よろしくお願い致します。

田中:最初に清水さんがどういう方なのかご紹介したいと思います。イギリスのウォーリック大学哲学科で博士号を取得された後日本大学研究員、東京大学特任助教それらのお仕事を経て、立教大学兼任講師を務めていらっしゃいます。他に目黒の哲学カフェで毎月進行役として哲学カフェを開催されていらっしゃったり、NPO法人「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」という団体があるんですが、そちらで子供のための哲学のイベントを不定期で開催されていらっしゃいます。こちらのイベントなどは、最近ではオンラインで開催されていらっしゃるということですが、大学に限らず大学の内外、色々な場所で哲学対話の進行役を務めていらっしゃいます。ということで清水さん、今日はよろしくお願いします。

清水:よろしくお願いします。楽しみにしていました。

田中:『大いなる夜の物語』自体はどのくらいの構想に関わる時間をかけて書かれたのでしょうか。

清水:こういうお話をちびちび書き始めたのはもう随分前でもうかれこれ20年前ぐらいからいろんなものを書き溜めていたんですね。それで書き溜めて、書き溜めていって、大きなものを一つにまとめて書こうとは全然思ってなかったんですけど、東大時代にお世話になっていた小林康夫先生という方が「もっと書いてごらんよ、百書いてごらんよ」って仰ったんですね。「この調子で百個にしてみなよ」って。数十はあったんですけど、百書いてごらんよって言われて、百書いていくうちに、あ、ちょっと本を書いてみたいなっていう気持ちが出てきて。そういう細かいお話をいろいろつなげて大きなお話にするってことやってみたいなと思って。そうするうちに編集者の方と出会ったり永井均先生に応援して頂いたり色々あって。それで物語を大きく作り始めると、なんだか神話の力を借りて、という感じの言葉がふさわしいですかね。神話ってやっぱりすごいんだなと。神話のモチーフが色々出てきますけど、そういうものを使うとスルスルスルスル繋がっていってしまって、あ、できちゃったなっていう感じですね。大きな物語を書いていたこと自体はだいたい2年ぐらいです。

田中:今「百個書いてごらんよ」と、数字の話が出てきましたが、41の謎から構成されていて最初の1番目の謎42番目として戻ってくるような形になっているちょっと不思議な構成を体験できる本ですよね。私自身もこんなに謎のバリエーションを清水さんがお持ちだったということは、清水さんご自身のことは長く存じ上げていたのですが、謎のバリエーションについては、この本で初めて知ったところで、とても新鮮に読ませて頂きました。

清水:ありがとうございます。

田中:社会人になりたての二人の視点で物語が書かれているのも今から社会に出て行く人達にとっては共感を持って読んで頂けるんじゃないかなと思うんです。清水さんご自身が二十代前半ぐらいの年にお持ちだった謎も含まれているのでしょうか。

清水:そうですね、たくさん含まれていますね。ちょうどこういうお話を書き始めたのが自分が二十代前半の頃ですからね。そういう頃に得たヒントとか話の種みたいなのがすごく含まれています。

田中:足掛けもう10年から20年ぐらいこの謎は温めていらっしゃったっていう感じですね。

清水:本当にまさにそうです。

田中:謎のバリエーションもそうなのですけれど、ちょっと特徴的というか印象的だったのが、視点がいろいろ変わるところで。主人公視点のことをPoint of View、POVと言ったりすると思います。最近だったら、youtuberとか動画制作をしている方もPOVは気にする言葉みたいです。

清水:あ、そうなんですか。

田中:映像を撮る時の視点をどうとるのか。主人公視点で撮るのか、あるいは空間にxyz方向の次元があるとして、その中の視点で撮るのか。X軸方向、横に移動するような風景を眺める動きを「パン」。縦に高い建物を見上げたりとか木を上から見下ろしたりとかそういうY軸方向縦軸軸方向の動きを「チルト」って言うらしいのです。Z軸方向は奥行きを回転させるような動きを「ロール」って言ったりするみたいで。

清水:へ〜。

田中:最近私も動画制作の勉強し始めて、そういう言葉を耳にしていたところで、清水さんの小説を読ませて頂いて、すごく映像的に想像しやすくて。この本読んで色んな映像制作をされている方は、どういう風に映像化するんだろうということにすごく興味が湧いたところで。視点と空間の使い方が今までにない感じがしました。

清水:嬉しい、感動的です。喋っていいんですかねこれ。

田中:はい、どうぞ。

清水:そういう映像的な…自分が割と少年ジャンプとか、そういうのを読んで育ってきて、のめり込んで育ってきたので。そういう感じでのめり込んでほしいなと思って書いていたので。漫画とかアニメとかはかなり意識しました。

田中:やっぱり、そうなんですね。

清水:はい。

田中:なんでこういう描写が新しいと感じたかというのも、自分でもどうしてなんだろうという疑問があったので考えていたんですけれども。多分今までの哲学書や哲学をモチーフにした物語色々あったと思うんですが、活字の中で組み上がっていくロジックを中心に書かれて物が多くて、視点や空間というものを意識的に強調している物語はすごく現代的だなと思って。今私たち自身もそうだと思うんですけど、本を読んでいる時間よりも何か映像を見ていたりYoutubeで何か勉強している時間の方が長くて、動いているものを誰かの視点を借りて学んでいくという時間が多いかと思うんです。そういう習慣とか日常の楽しみ方とこの物語の世界が凄くマッチしている感じがして。小説なんですけれどもこうVRメガネみたいなヘッドセットをかけて本の世界を見ているような感じがあって。視点が色々なところに連れていってもらって楽しいなっていう感じがあったんです。こういう視点の動き方について何か清水さんご自身の哲学的な関心がおありでしたその辺りをお聞かせいただけないでしょうか。

 

視点の存在と持続性

 

清水:今お話を聞きしていて、すごく面白いなと思いましたね。現代私たちは視点を人の視点を借りるっていうことをすごくやっているんじゃないかっていう。どうしてそういう世の中になってきているんだろうってのも、不思議ですね。どうしてそんなことができてしまうのかってのは、不思議なんですけど。私自身は、この本の中で中心的に扱われてる謎の一つが「どうして私はこの人間として生きているんだろう」というところが一つ大きな謎なんですね。「どうして私はこの人間として生きているんだろう」という時にその謎はこうも言い換えられる。「どうして視点というものがここにあるんだろうか」。

田中:ああ、面白いですね。その転換が面白いです。

清水:そういうことなんですよね。さらに不思議なのはこの視点というのは恐らくですけどずっと続いてきているんですよね。生まれた時から。同じ人の目の所にあるんですよね。清水将吾という人の目の所に視点がずっとあるんですよね。で、それをもとにして他の人の視点を借りたりするわけですよね。借りたりする時にはちょっとその人になってるわけですよね。視点を借りるというのはちょっとその人になるって言うことで。これそうですね、田中さんも仰ったように、ちょっとより面白いところだと思うんですけど。一つ不思議なのはずっとどうして同じ人間として続いてきちゃっているんだろうってのはとっても不思議ですね。そこまではこの本の中では書いてないんですけど。こんな視点なんていうあってないようななんか点みたいなものとか何だか何であるのかわからないようなものが何でそこまでして持続しているんだろうかっていう。

田中:視点の持続性ですか。

清水:ですね。こんな儚そうなものがよく42年間もついてきた、続いてきたなという実感があります。

田中:(笑)まずなぜそこに存在しえたのかということと、それがなぜ続いてきたのかっていうことですね。

清水:まさにそうですね。これはこの謎についてすごく共感してくれる人がよく言うんですけど、毎朝起きる度にまた自分だったって。ちょっと感動するって。

田中:(笑)

清水:これ移動してても構わないわけですよね。本当に。

田中:視点を変えることができる以上、移動もできるかもしれないですものね。

清水:そうですよね。

田中:なぜか戻ってきちゃいますね。

清水:戻ってきているんですよね、一回消えていったかのようで戻ってきていますね。

田中:何か物語の力ですとか、映画の力を借りて誰か別の人の視点を借りることはできても、またその物語の本を閉じたり、映画の画面を閉じたりすると、自分の視点に戻っちゃいますよね。

清水:戻っちゃいますね。だからまあせめてと言うかこの物語の中ではそれでちょっと遊んでみちゃったっていうぐらいのことはあるかもしれない。

田中:なるほど。最初の草野春人さんという主人公視点から、別の方の視点に移動したり、あとは普通の「ト書き」と言われるような物語を誰の視点から見ていないような、神視点と言いますか、鳥瞰的な視点にも飛んでいかされたりして。凄く面白かったです。

清水:それは良かったです。本当に嬉しい。

田中:そしてその遊んでいる感じが理解できるところが現代風なのかな?と想像しているところなんですけど。清水さんご自身が漫画の文化に慣れ親しんでいらしたところと関係しているかもしれないですね。

清水:そうですね、そう考えると面白いですね。

田中:あと、清水さんは英語圏でも長くお住まいでいらして。

清水:シンガポールですとかアメリカとイギリスには住んで生活したことがあるという感じです。

田中:学術的な訓練を受けられたのがイギリスで。20代後半ぐらいから行かれたんですかね。

清水:そうです。27、8ぐらいの頃に行きました。

田中:日本にいらっしゃった時間とそれ以外の国にいらっしゃった時間は割合で言うとどのくらいですか。半々ぐらいですか。

清水:半々だった頃はかなり前に過ぎてしまって、日本にいる時間が長くなっていて。

田中:そうですか。

清水:はい、今どれくらいだろうな。海外に住んだのは通算で13、4年ってとこですかね。

 

主語なしでどこまで行けるのか

 

田中:わかりました。先ほど視点の動きの面白さの話をしたところですけど、言語的な感覚も何かもしかしたら物語の謎に関係しているのかなと思って、ちょっと質問をさせて頂きたいのです。日本の文学で川端康成が書いた『雪国』という有名な小説がありますが冒頭のところで「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」という表現があります。この表現は日本語圏にいる日本語ネイティブの我々が読むと電車の窓から外を眺めるような主人公の視点であったり、主人公の隣にいる自分の視点としてこの冒頭の表現をイメージする方が多いらしいんですね。私もそうなんですけど。それでこれは英語に訳されていて英語で訳したものを英語圏の方が読むとちょっと視点が変わるようなことが起きているようなので、まずはその英語バージョン是非清水さんにご紹介頂きたいなと思います。よろしいでしょうか。

清水:はい、よろしいでしょうか、こちらこそ僭越ながら(笑)。こんな感じですね。

“The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky.” (国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。) Edward G. Seidensticker, Snow Country, 1996.

ありがとうございます。

田中:もうそのまま聞いていたいです。元の日本語もちろん最初からインパクトがある書き出しですけど、英語もいいですね。

清水:そうですね、雰囲気がだいぶ違いますけどね。

田中:清水さんご自身が日本語版と英語版を読みになって視点やここで想起されるようなイメージで何か違いはありますか?

清水:これはやっぱりまずはあれですよね。”The train came out of the long tunnel” と言われると「電車がトンネルの中から出てきた」って言われているので、雪国の方から電車が出てくるのを見ているような視点ですかね。いかがでしょうか。

田中:そういう風に思い浮かべる方が英語圏の方でも多いらしくて。私も冒頭の主語が “The train” なので同じようなイメージでしたね。日本語の方はいかがですか?

清水:日本語の方はこれは自分で読んだ時も自分が主人公の視点で席に座っているような視点ですかね。で、急にパッと景色が変わったという情景が思い浮かびましたけど。

田中:翻訳者は、日本語がもともと主人公視点だったものを雪国視点に変えていると言ってもいいと思うんですけど、これを主人公視点を維持したまま英語化するということは、言語的には可能なんでしょうか…。難しいタスクを課してしまったかもしれませんが(笑)

清水:これは難しいと思いますね。そうするとしたら例えば “I” を主語にするとかあとはもう構文を色々して次の文と繋げるとかしなきゃいけない。

田中:冒頭を直訳すると “Getting through the tunnel”と言いたくなっちゃいますけど。

清水:そうですね、そういう分詞構文。

田中:動きを訳したいですよね。

清水:言われてみるとこれは動きがありますよね。変化というか。日本語だと。

田中:そうですよね。

清水:はい、でも英語だと少し写真のような感じが…。

田中:そうなんですよ。多分、翻訳者の方はそういう分詞構文的なものを使って元の視点を維持するということよりも、英語としての自然さの方を優先たんじゃないかな…と想像されるんですが。

清水:恐らくそうでしょうね。でもなんか映画で言うとリメイクぐらいの違いはありますよね。新しいバージョン新しい視点で撮ってますからね。

田中:(笑)本当ですよね。そこも言葉が違うとこんなに視点も変わってくるんだなというのが面白いところだなと思って、清水さんにお伺いしてみたかったところです。

清水:面白いですね。これは逆にこの「電車」っていうのを日本語に加えるとしたらどうやって加えられるだろうかっていう…。英語には「電車」というものがありますよね。「電車」というか「列車」、「汽車」。“The train”というものが日本語にはないけれどどうやって入れたらいいか、という問題もありますよね。

田中:確かに「電車」は言及できないですよね。日本語だと「場所」なので。「視点」なのでまさに。自分が乗って移動している視点なので。そこを外からは指せないですよね。

清水:そうですね。もう「電車が」って言うと英語と同じような事になってしまうし、視点が外になってしまいますよね。「電車が国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」でもこれだとどっちでも取れないか。ちょっと難しくなってきましたね。どうでしょうか。これに「電車が」って加えるとどうですか、田中さん。「汽車が」、「列車が」でも。

田中:うーん、ちょっと混乱しますね。でも最初の英語的視点に近づきますね。「電車が」と入れると。

清水:私も同じような印象を持ちます。

田中:山の上から雪国全体を眺めているようなドローンみたいな視点で、山の中にちょっと小さく空いいてる穴から電車が出てくるシーンですかね、思い浮かぶのは。

清水:やっぱり小さい穴ですよね。なんか結構遠いですよね。視点が。

田中:そうなんですよね!

清水:それも面白いですね。

田中:かなり離れてますよね。「電車が」ってつけちゃうと。

清水:そうなんですよね。

田中:辺り一面真っ白な雪景色で。でも日本語で「雪国であった」というところが…そこまでは雪国であることを知らなかったのにトンネルを抜けた瞬間に「雪国であった」というところが、その視点だとちょっと矛盾が起きるというか。

清水:そうですよね。

田中:光のこうバッっと暗いところが真っ白に変わる変化みたいなのがこの描写だと…。

清水:まさにそうですね。

田中:面白いですね。主語をつけるかつけないかだけでこんなにも違うのが。

清水:「電車で」だとどうですか。ちなみに(笑) 「列車で」の方がいいかな。「汽車で」

田中:あ! そうですね。まだ「が」よりは最初の主人公視点が維持できそうですね。

清水:なるほど。

田中:でも元の日本語は一体化していますよね。汽車という空間そのものと私自身の視点が。

清水:なるほど、そうですね。そうか、汽車というものと一体化してしまっている。

田中:主語の描写が「私」も「電車」もないことで。

清水:すごく不思議な言語体験をしているんですね。これって。そんな一体化ってリアルではないですよね。

田中:一体化が出来る日本語的な特徴が生かされているのかなというところがありますね。

清水:そうですね、やっぱり「列車が」とないことによって、その汽車自体と自分が一体化してるような一体感というのが実は体験できているというのが、田中さんが仰るとおりと思いました。

田中:この話が、『日本語は映像的である 心理学から見えてくる日本語のしくみ』という本にありまして。

清水:初めて見ました。

田中:この本自体とっても面白い本で最近読ませて頂いた本で。自閉症の療育の専門の先生が書かれていて他の言語と比べて日本語は映像的で主人公の隣の視点で理解するような特性があるんじゃないかっていうことをずっと書かれている本なんですね。この本を読んだ後に清水さんの物語に連れて行って頂いたので、そこもありつつ、凄く面白かったですね。

清水:すごく不思議な文脈でこれを手に取ってくださったっていうのがとても嬉しいです。

田中:もう一つ、この話はtwitterでもしたんですけど、読み終わった後も結構不思議なことが起きて。皆さんちょっと最近のニュースで覚えていらっしゃるかもしれないんですが、7月2日に空を明るく照らす火球が各地で観測されて、7月13日になったらその正体がわかったというニュースが流れまして。千葉県の津田沼っていうとこがあるんですが、そちらに隕石が落下したことをその落下のシーンをみんな7月2日の段階で見ていた、というニュースでした。清水さんの物語を読み終わった直後に、この7月13日のニュースを読んで。それもすごく不思議な体験でした。物語の延長をまだ生きているかのような描写があったので、この話にもちょっと触れたいんですけれども。

清水:いや不思議ですね。このニュースがあった時に私も不思議に感じて。そしたら田中さんが今読み終わったっていう風に来たから。ああっ!てきましたね。

田中:『雪国』の話とも繋がるかもしれないんですが、PRtimesというところで発表された国立科学博物館からの隕石落下についてのニュースを、これもちょっと清水さんに読んでいただきたいなと思ってお願いさせていただいておりました。

清水:はい。よろしいでしょうか。僭越ながら再び。こちらの「落下状況」のところでしょうか。

田中:はいそうです、お願いします。

清水:「落下状況」という見出しがありまして。

「7月2日(木)午前2時32分に大火球が流れ、同じ頃、千葉県習志野市のマンションの2階で大きな音がした。朝に玄関を開けると、玄関前の中庭に面した共用廊下に石の破片があることを発見した。その後、火球のニュースを聞き、隕石の破片ではないかと思い、翌朝拾って保管した。廊下の手摺りにも隕石が当たった跡と思われる傷があった。また、他にも破片があると思い、7月4日に管理人と一緒に中庭を調べて2つ目の破片を発見した。2つ目の破片は雨と外気に2日間当たっていたため、隕石に含まれる金属が錆びて茶色くなっている。」【国立科学博物館】速報!各地で観測された火球が隕石であることを確認!

田中:ありがとうございます。もうこの描写自体、すごく不思議で。私もこういったプレスリリースを書く仕事をしているんですが、こんな不思議なプレスリリース初めて見たっていうくらい衝撃的なプレスリリースで。何がそう思わせるのかと言うと、今読んでいただいたところには一箇所も(動作主の)主語がないんですよね。

清水:そうですね。すごい文ですね。一箇所もない…なるほど。

田中:何が隠れた主語なのかというと、この隕石の破片を発見した習志野市のマンション2階近辺に住む方なんですよね、きっと。その方の(詳しい)情報はプレスリリース全体どこを通してもなくて。どういう方が見つけたかということが。

清水:そうなんですね。全体読んでもないんですね。

田中:でも、発見された方への言及はないけれども、発見した方の視点を借りて、隕石がどこにあってどういう色をしていたかというのが分かる表現になっていて。すごいプレスリリースだと思いました(笑)。

清水:(笑)今までで一番くらい?

田中:一番。これはもうこのニュースでこの文体を選ばれた方はすごいなと思いますね。

清水:(笑)確かにこれは今私も読んでいても不思議な気持ちになりました。追体験してるような気がしましたね。

田中:多分「7月2日に大火球が流れ」のところは、この発見された方が見ていたかどうかわからないんですけど、「流れて」のところは事実の描写で。「同じ頃、千葉県習志野市のマンションの2階で大きな音がした」って(笑)。

清水:そうか、出だしからして「同じ頃」って始まっちゃってるわけですね。

田中:始まっちゃってるんですよ。もう。これは映画でいうと『君の名は』とか、そういう映画のオープニングのような感じがします(笑) これを映像化するとしたら色んなやり方があるなっていう感じがするんですけど。大きな音がしたところを聞く私がいるわけですよね。

清水:そうですね「音がした」。聞こえてますね、私に。不思議ですね。

田中:不思議なんですよ。習志野市のマンション2階に住む方の追体験してるような気がして。

清水:どんな人か全くわからないですけれどもそうですね。

田中:この方が清水さんの物語の主人公の草野春人さんなんじゃないかと思わされますよね。

清水:ああ。なるほど。そう思っていただいたのが嬉しくなってしまいますけど。

田中:でも日本語で書くからやっぱりこれも可能な表現なのかどうかというのも清水さんにお聞きしたかったんですが、いかがですか?

清水:これ英語に訳すとしたら…。もう主語なしで訳すとしたら音がしたっていうところを “There was the sound” とか、 “There was”みたいなのから始めてやるしかないですね。ある意味、無主語な感じの英文にするしかないですよね。

田中:「石の破片があることを発見した」というのはどうですか?

清水:これはさらに難しいですね。発見してしまっていますからね(笑)主語なしでいくとすると受身でいきますかね。

田中:「朝に玄関を開けると、玄関前の中庭に面した共用廊下に石の破片があることを発見した」。

清水:そうか、「開ける」という動作も入っちゃっているんですねこれ。

田中:そうなんですよ。

清水:両方とも「開ける」も「発見する」も”opened”と”discovered”で、二つとも受け身にすると、とっても英文としては不自然になってしまいますので。

田中:そうですね。やっぱりこの誰かの視点を借りて、その視点を誰でもないものとして、私がその視点を借りて理解するという言語(表現)は、日本語でしかちょっと難しいのかもしれないですね。

清水:そうですね。そんなことをいとも簡単にできてしまう日本語って何なんだろうか、という気がしてきていますね。

田中:日本語と英語しか今話題に出していないので、他の言語では可能かもしれないんですけど、不思議ですよね。

清水:次の「思い」とかももっと難しくなってきますよね。「保管した」って。

田中:その次ですか?

清水:その次は「隕石の破片ではないかと思い」っていきなり来てますからね。「火球のニュースを聞き隕石の破片ではないかと思い」って聞いて思ってる。「翌朝拾って保管した」。

田中:「保管した」まで。もう音が聞こえたとか見えたとか以上のものをしてますね(笑)。

清水:そうですね。

田中:追体験させられてますね。

清水:させられていますね。これは英語では本当に難しいかもしれない。

田中:そうですね、聞いたり見たりは“It was”とか “There was” とかでできるかもしれないですけど、「思う」とか「保管する」はやっぱり “I” なのか”He” なのか “She” なのか言いたくなりますよね。

清水:そうですよね。

田中:日本語は全部主語なしで続けられるっていうのが(笑)。

清水:本当ですね。

田中:ずっとその手元にある隕石を見ているっていう気持ちになりますよね。

清水:そうですね。言ってみればその主語があるはずのところをなんか私自身が埋めてしまっているっていうようなそういう読み方ですよね。

田中:そうですね。あえて主語を入れるとすると、「私」とか「僕」とかそんな感じですよね。

清水:そうですね。

田中:それを物語の一つの描写だと思って私とか僕になりきって読み手が読んでいる感じはしますよね。

清水:そうですね。とても物語っぽいですね。隠れた主語は「私」で、それは夜であり闇である。だから隠れることができる。そういうことも言えるかもしれません。

田中:清水さんの小説の中でもそういう主語の使い方というのはとても効果的に使われているところがあるかと思うので。これからお読みになる方はちょっとその辺も注意して読んでいただけると面白いんじゃないかなと思いますね。今、清水さんの本で見つけたところで読みますと、33ページ「謎その7」ですね。あ、これもちょっと最初読んで頂いてもよろしいですか? 急で申し訳ないんですが。

清水:最初からですね。

「しばらく歩いていると広場のようなところへ出た。広場に面していろんな建物がある。とんがり屋根の建物が広場に影を落としている。太い柱がいくつもついた建物もある。人はまばらで荷車が一つ止まっている。小さくしか見えないので何を積んでいるのかはわからない。うまく歩けるようにはなってきたけど見えるものはまだ全部小さいままだ。」『大いなる夜の物語』p.33

確かにそういう意識で読んでみると…。

田中:まさに(動作主の)主語がない(笑)。

清水:やっちゃってますね。これ全然意識してないです、書いている時は。しばらく…。自然とやってるもんですね。

田中:抽象的なものが小さく見えて具体的なものが大きく見えるという謎に関わるところだったと思うんですが。

清水:そうですね。

田中:そこも面白いです。主人公の視点を借りると、遠いものであったりとか近いものがその体験してる主人公の視点を借りて、具体的なものに見えたり、抽象的なものに見えたり、ということを追体験させられてという感じもあって。すごく面白かったですね。遠近感と抽象具体がパラレルに考えられるというところも。「謎その7」イチオシですね。

清水:ここはまた新しいご感想かもしれません。みなさんバラバラのところを仰るのがとても面白いですね。ご感想を聞いてると。本当にまだちょっと自分の中で整理がつき切れていない問題でもあるので。

田中:ああ、そうですか。

清水:まだ気になってるところです、自分でも。

田中:今教えて下さったように、41の謎があるので、読み手によっても引っかかるところが様々だというところもこの本の特徴の一つなんじゃないかなと思うんです。体験されている観点も違うと思うのでそういう感想を聞くというのも面白いですよね。

清水:とっても面白いですね。この人はここなんだ、という感じで聞けるんですよね。

 

哲学と科学の向き合い方

 

田中:今、視点の話と言語の違いの話をお聞きしてきたところなのですが。宇宙の話がよくテーマとして物語中で出てくるんですけれども、宇宙物理学の人も哲学的な謎の継承の仕方であるとか、そういったものはもう終わったものとして語られる方も多いですし、逆に哲学の方が宇宙物理学の話を聞いても限定的な話をされているように解釈される方も多いので、哲学的な物語の中で宇宙物理学でわかっていることが参照されているのは面白いなと思ったんです。何か清水さんご自身が最近の先端的な宇宙物理学中で分かっている事も参考にされたりもしてらっしゃるのでしょうか。

清水:そうですね。僕自身すごく宇宙物理学の話が好きで。というのは宇宙の話が好きだから、哲学をやるにしても宇宙のこと考えるし、科学の話も気になるしという感じで。自分の中ではゆるやかにつながっている感じがあるんですね。最近でこの本を書く上で特に意識したのは、「マルチバース」っていう考え方ですかね。宇宙がこの宇宙以外にもたくさんあって…そういう考え方ですよね。その話を聞くとすごく不思議な気持ちにさせられて大好きなんですけど。理論的なことはよくわからないんですけど。

田中:そこは哲学者である清水さんが楽しめる素材が宇宙物理学の中にもまだまだあるということですね。

清水:ありますね。例えば、表と裏とか、内と外とか。さっきちょっと田中さんがおっしゃったような次元の軸ですかね。三次元の軸とか。そういうことはすごく関心があって。哲学的にも扱っていて。実は今、本を書こうとしてたりするんですけど。左右の軸と左右について。その内外表裏右左みたいなことをすごく興味がある時に、やっぱり宇宙物理学の話すごく参考になるんですよ。

田中:そういった最先端の科学でわかってきていることを哲学的な謎として、有効的に物語に昇華されるということを常にやっていらっしゃるんですね。

清水:はい。昇華しようと思ってやっているとよりも、自分の中で考える時に両方気にしてやっているので、自然とやっているという感じはありますね。

田中:それはイギリスにいらっしゃった時に宇宙物理学の専門の方が近くにいらしゃったという環境だったのですか?

清水:いましたけどね。でもその人とはあまり科学の話をしなかったかもしれないですね。むしろ先生で、お世話になった先生がとっても科学、物理学とかそういうことに興味がある人で。そういう向こうの先生とはよく話を聞いて、こういう風に哲学者は考えるんだって、ちょっとそこで学んだのかもしれないですね。哲学的に考える時もやっぱり科学でわかっていることってもちろん尊重しなきゃいけないんだよという、こうやって考えればいいのかという感覚は、そこで学んだかもしれないですね。

田中:違う学問として分化されてお互いにコミュニケーションできなくなっているということの方がよく聞く話なので。

清水:確かにそうですね。とても残念ですよね。関心はすごく共有してると思うんですよね。

田中:そうですよね。違いをあげたら切りがないかもしれないですし、分野として違う以上違うことの方が多いのでしょうけれど、共有できるところをお互い楽しめるようになるともっと建設的にいろんな扉が開いていくんじゃないかなと思いますね。

清水:そうですね。まさに共有できるひとつ大きなものは謎だと思うので。そこを共有していきたいですよね。

田中:謎の輪郭をはっきりさせるというところは一緒にできるかもしれませんよね。

清水:本当にそうだと思います。

田中:日本のアカデミア(学術業界)の悪い特徴かもしれないですけど、分化された者同士はあまり話ができなくなっているというところは。イギリスが違う環境だったのであれば見習いたいところです。

清水:イギリスでも似ているかもしれないですけどね。細分化が進んでいて。それぞれの分野の中に他分野に興味がある人っているのがちゃんといて。そういう人に出会えたのはとっても良かったですね。

田中:素人目線でいうと、自分が持った謎をどの分野が解決してくれるのかは最初は分からないものだと思うので、清水さんのような方の助けを借りてガイドしていただけたらすごくありがたいと思いますね。

清水:いいですね。やりたいですね。『ゼロから始める哲学対話』という本に文章を寄稿しているんですけれども、「宇宙と存在」というセクションを担当させて頂いて。それは一般向けの本なので、関心のある方はちょっと見ていただけると。

 

最初の言葉は対話で生まれる

 

田中:最後に用意していた質問の中で、お聞きしたかったのですが、「謎その23」というセクションで「最初の言葉はどうやって生まれた?」という謎があって。ここに書かれている表現で「今まで言葉で表せないようなことを考えたりするとそれを表すためのものが夜の向こうで生まれてここに流れ着いてくる」という表現があって。すごく美しいなと思って。私自身もこういうインタビューをさせて頂いて、今まで表現されていなかったことがこういう場所で聞けるのがとてもやりがいのある楽しいことなので。それを哲学者と一緒にできるのは、いつも毎回本当に刺激を頂いているところなんです。清水さんにとって世界に対する謎や言葉はどういう時に生まれるものなのでしょうか。

清水:この文章が思い浮かんだ時のことはよく覚えていて。あの実はこれあれなんですよね。一人で考えていて新しい言葉が生まれるっていう体験をした時じゃなくて、誰かと哲学カフェなんかで哲学対話をしている時に。これ今も対話だと思うんですけど、田中さんと僕との二人の。こういう時にふっと新しい言葉が生まれてくるという体験がすごく念頭にあったんですね。この文章が思い浮かんだ時は。哲学カフェとか子どもと哲学をしてる時に自分が波打ち際を歩いて貝殻探しをしている人のようなそんなイメージが思い浮かんだんですよね。どうですか?

田中:そういう風に自分では表現しきれないですけれど、描写されたイメージを感じて確かにそうだなとわかるところが素晴らしいなと思って。この「謎23」は本当に素敵だと思います。波打ち際に貝殻が光っているように新しい言葉が流れ着いて、気に入ったもの拾う、という、そういう哲学カフェでの体験をされていらっしゃるのが分かって。清水さんが進行役をされている哲学カフェには皆さん安心して身を任せて楽しんで頂けるのではないかと思います(笑)

清水:相性はあるかもしれないですけど、好き嫌いはもしかしたらあるかもしれませんけど、是非お会いしたいですね、多くの人と。一度お試しで来て頂けるととても喜びます。

田中:また今後計画されていらっしゃるイベントの情報などもリンクでご紹介したいと思いますので。ご参照頂けたらと思います。他は、清水さんのインタビューを読める場所もこれから出てきそうですけれども。今月の25日に発売される雑誌の「クロワッサン」で清水さんのインタビューが出版されるようですので、ぜひ本屋さんですとか色々な場所でお見かけになった方はお手に取って頂けたらと思います。

清水:ありがとうございます、よろしくお願いします。

田中:哲学の表現って、論文にして発表するということ以上に、物語として、謎を他の人とたくさん共有していくというは、本来のあり方に近い感じします。

清水:嬉しいですね。やっぱり謎、問いなんですよね、哲学の命って。問いが受け継がれるから哲学が生き残ってきたので。そういうものを共有して。問いについて、謎について話していると楽しいですよね。

田中:他の人にもわかるような形で、ここにある問題を見てくださいということがまず最初のステップになると思うので。私も哲学専攻の学生だったので、論文にする苦しさとかわかるんですけども。洗練された文章を自分のアカデミックなキャリアなるように、完成度を高めてというところも本当に大事なところだと思うんですけど、もっと一般に広く分かりやすくていく、というところも同時にやれたら、すごく分野としてもいいことだと思うので清水さんには勝手ながら期待しております。

清水:いやいや、ありがとうございます。

田中:これを聞いてくださっている方が清水さんの『大いなる夜の物語』を手にとって、気になる謎を他の方と共有できるような時間に繋がったらとっても嬉しいので。ぜひまずは手にとってお読みいただけたらと思います。

清水さん:はい、是非是非よろしくお願いします。

田中:清水さん、今日はどうもありがとうございました。

清水:田中さん、どうもありがとうございました。とっても楽しかったです。

 

哲学カフェ情報
こども哲学Online#06「宇宙ってどれくらい広いの?」
めぐろ哲学カフェ